2019年03月27日

ブラック・クランズマン/非國民の創生

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オフィシャルサイト

ムーキー以来、スパイク・リーがこれほどてらいなく投影されたキャラクターもいなかったように思わせる、そしらぬ顔のトリックスターにしてシステムへの実行犯たるロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)の道行きだったのである。怒りに身をまかせるカウンターに自己陶酔するのではなく、システム(警察)の内部から自分の目で視て自分の言葉で話すことにより状況を導いていくロンの足取りは、ハリウッドシステムに罵声を浴びせつつその内部に居続けることで発言権を手放すことのないスパイク・リーそのものに思えたし、劇中で描かれるロンとパトリス(ローラ・ハリアー)の相容れなさは、スクリーンの外でのブーツ・ライリーによる今作への批判(「実際のロン・ストールワースは破壊目的で黒人急進的組織にも潜入している。これは結果的に警察=NYPDの広告キャンペーンを担っている」)によって現実的に補強すらされている。それに対してスパイク・リーは「確かに警察は批判を受けるけど、すべての警官が腐敗してすべての警官が黒人を憎悪しているとは思わないし、言いたいのはさ、警官は必要ってことなんだよ。そもそも黒人だって一枚岩だったためしなんかないだろ。あんなブルジョワがどうやってマルコムXやれるんだよ、とか言っていただいたのも黒人だし」とコメントしていて、KKKをコケにして高笑いする映画なんて誰にでも撮れるけど、笑った後の醒めて倦んだ気分がやって来るところから俺は始めたいんだというこの映画の気分にうなずけもするのである。かと言ってスパイク・リーが高みから俯瞰したままであったのかというと、劇中で誰か他人のために顔色変えて走り回り車をとばしたのはロンただ一人であった点で、それを厭うつもりなどあるはずがないことも告げていたように思うのだ。全体のトーンとしてはそれを装いつつもこの映画がオフビートな丁々発止で転がっていくリズムにまったく拘泥していないのは、クワメ・トゥーレ(コーリー・ホーキンズ)とジェローム・ターナー(ハリー・ベラフォンテ)の2人の演説を抜粋ではなく最初から最後までフルで収めている点にもうかがえて、ほとんどこのシーンのためだけに、ロン・ストールワースという男を利用したのではなかろうかという気すらした。撮ろうと思えば熟練したアルティザンの手つきでコメディだろうがドラマだろうがいくらでも撮れるスパイク・リーだけにこの歪が確信的であったのは言うまでもないし、ターナーの語りとKKK入会の儀式がカットバックでもつれあいながら怒りと昂揚をもつれさせていくシーンをこの映画のピークとデザインしたのは間違いのないところだろう。そして冒頭のインサートと呼応するエンディングは、確かにあれはあれで相当なクソには違いないが、言ってみれば作りもののクソだ、でもこれは正真正銘本物のクソであってその臭いは一生洗い落とせるはずなどないんだよ、なのに洗い落とした気になってるデオドラント野郎のためにこうやってまたそのクソの臭いをなすりつけてやるんだ、それで映画一本潰したとしてもな!という脱臼しそうなほどに立てられた中指であって、そういう人間が、ぼくらの尻はクソなんかしたことがない気がするくらいきれいさっぱりだよとでも言いたげな映画へ掴みかからんばかりにブチ切れるのはなんら不思議はないように思う。
posted by orr_dg at 17:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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