2019年03月23日

ちいさな独裁者/地獄に堕ちた愚者ども

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オフィシャルサイト


※モノクロ版で鑑賞

世が世なら、もしくは時と場合によっては、ヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)をナチスの権威をあざ笑うピカレスクとしてもてはやすことも可能だし、実際のところ、ヘロルトがいかにして局面を切り抜けるのか彼の無事をサスペンスとするワタシであったりもしたわけで、彼らが実在したのかどうかは不明ながら、フライターク(ミラン・ペシェル)とキピンスキー(フレデリック・ラウ)という2人の兵士をそれぞれ性善と性悪の象徴としてヘロルトの両サイドで対照させることで、観客がヘロルトを見据える視点を失わないようデザインした監督の意図は明晰に思えた。将校(の制服を着てい)ながら腹は減っていないかと気さくに果物をくれたヘロルトに対するフライタークの階級を超えた感情と、会った瞬間にズボンの裾を見てすべてを察しながらそれを暴くよりはこの制服の嘘っぱちに乗ることを得策としたキピンスキーの、この2人に対するヘロルトのふるまいに制服の怪物が成長していくさまが投影されていくこととなり、とりわけヘロルトの変貌を間近で目の当たりにしているフライタークにヘロルトが施す通過儀礼は凡庸な悪を生産するシステムそのもので、当時のドイツであちこちに生まれうごめいていたであろう小さなヒトラーをヘロルトに追うことで、その卑俗な正体をミクロからマクロへと喝破してみせたように思うのである。収容所の爆撃後にインサートされる劇中でただ一度パートカラーとなるカットを境にヘロルトとその仲間たちは退廃と堕落の地獄めぐりを繰り広げ、その執拗な描写によって救済を与える余地の一切を監督は徹底的に潰していくわけで、このあたりはヒトラーが描かれる時の両義性のような手配に対する苛立ちや嫌悪によるものなのだろう気がしている。作劇上のカウンターとしての演出もあったのかもしれないけれど、敗戦を目前にした戦争末期の収容所ですら法の秩序は維持されようとしていたわけで、この映画に寓話性よりは直截的な警告のメッセージを見出さざるを得ないほど今ワタシたちがいる場所は底が抜けていることを伝えるヘロルトを、道化と指さして笑うことなどできるはずがなかったのだ。荒涼としたモノクロームに血の赤で浮かび上がるタイトルや前述したパートカーラーの効果はともかく、何より人間の「汚れ」を浮かび上がらせる白と黒のコントラストを犠牲にした点で、モノクロームをカラーにすることで観客を訴求するハードルが下がるという客観的なデータがあったとしても、映画のポテンシャルを味わい尽くすことの叶わないカラーで観ることの意味がワタシにはよくわからないなと思った。
posted by orr_dg at 16:37 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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