2019年03月13日

運び屋/罪を憎んで俺を憎まず

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朝鮮戦争の復員兵が一日だけ咲く花にいかにして取り憑かれていったのか、などといったアール・ストーン(クリント・イーストウッド)のプロファイルも、さらさらと流れ続ける物語のたたえる水面の透明と静謐にあってはそれを乱す澱みでしかないのだろうし、『ハドソン川の奇跡』以降さらによどみの消えた語り口の最初から最後まで一糸乱れることのない歩幅と息継ぎもあって、まるで一筆書きのような116分にも思えたのである。ではそれがもたらすのが恬淡と枯れた味わいであったかというとそうたやすいものであるはずもなく、すべての登場人物が否応なくアールの後ろをそぞろ歩きしてついて回る羽目になることもあり、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャ、ローレンス・フィッシュバーン、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシアといったそれなりに手練な面々のパートですらが、ハーモニーというよりはユニゾンで奏でられるせいなのかすべてが均等に無効化されていたかのようで、『15時17分、パリ行き』を経たことで役者と演技という命題について何かおそろしい極北にクリント・イーストウッドは到達してしまった気がしないでもなく、それもこれもすべては、パンクして道端で立ち往生する黒人の家族に気さくに手を貸しつつ彼らを軽やかに二グロと呼び、メキシコ人のお目付け役をタコス野郎と呼んで白人御用達の店に連れ込みつつここのポークサンドは中西部一だから食ってみろとふるまうアールの両義性をすりつぶして全体性へと均すための参照物でしかないという割り切りの要請であり、おかげでアール以外のほとんど誰もが木偶に映らざるを得ないおだやかに異様な演出となっている。せいぜいがダイナーでの捜査官(ブラッドリー・クーパー)との絡みが唯一立体的な交錯となったくらいで、黙ってにやにやしていた以外のローレンス・フィッシュバーンをワタシは覚えていないし、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)との最期までドライな熱量に終止するシークエンスも、アールのニヒリズム寸前のノンシャランへと呑み込まれていたように思うのだ。それらすべてはアールという男の人生の道具立てでしかないことは、ラストで舞台の左袖へと退場していくアールをとらえ続けるカメラの長回しが物語っていたし、携帯電話やインターネットに毒づきゴージャスな娼婦を両脇にはべらせ、誰にも使われずにおまえ自身の人生を楽しめと悪党に説教し、すべての不義理を笑って許してもらうアールの漂白する軽みこそが、いつしかGo ahead, Make my dayの薄笑いにつながっていく気がしたのである。そういえば、北野武もメソッドを嫌う早撮りの人で埒外の俳優を好んで起用したことや、台詞と台詞の間で一瞬だけ間をあけてその場で足踏みをするよう演出したバストアップのショットが、フレーム内では見事に感情のゆらぎや溜めとなって映し出されていたという市川崑のエピソードなども思い出してみれば、演技は現象でしかないという透徹した認識の極北がここにある気がしたのであった。
posted by orr_dg at 01:33 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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