2018年12月22日

マイ・サンシャイン/ぼくが殺した街、ぼくを殺す街

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ジェシー(ラマー・ジョンソン)が囚われた青春の蹉跌それ自体は、ロサンゼルス暴動が起きなかったとしてもいずれ彼を捕まえたかもしれず、あの時代のあの場所で彼や彼女たちがいかに薄氷の上で、ひとたびそれを踏み抜けば死まで真っ逆さまとなる日々をおくっていたか、ミリー(ハル・ベリー)という献身的で優秀なキャッチャーがいたとしてもそれが起こってしまうのが1992年のロサンゼルスだったということなのだろう。大人たちは良くも悪くも既に仕上がってしまっているし、分別とやらであきらめを知る方法もあるだろう、だからこそ未来の入り口に立ったばかりの子どもたちがそれを強要される醜悪や残酷を彼や彼女の代わりに私たちは、少なくともは私は語らなければならないと思う、というのがデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンの映画作家としてのマニフェストなのだろうと考える。したがって、ここでもジェシーやニコール(レイチェル・ヒルソン)、ウィリアム(カーラン・KR・ウォーカー)たちの屈託や焦燥は細やかかつヴィヴィッドに描かれていて、なかでも、若くしてミリーを補佐するキャッチャーとしての役目を背負い、法の正義を信じ暴力を否定し続けたジェシーを生贄として差し出す、その抱えた本質の重たさゆえに薄氷を踏み抜いてしまう悲劇の寄る辺のなさはデビュー作にして前作の『裸足の季節』に通底する視線であったのは言うまでもない。その一方、ミリーとオビー(ダニエル・クレイグ)という子どもたちのキャッチャーとなる大人についてはその役割以上の重さが与えられていないことで、彼女や彼が薄氷を踏み抜いてしまう人間であるかどうかがしっかりと描かれることがないまま、たどたどしいロマンスに終始してしまうのはどうしたことか。癇癪を起こしてはショットガンをぶっ放し、家具を2階から放り投げる男としてオビーは劇中では色づけされており、にもかかわらず姿が見えなくなった子どもたちがオビーの部屋にいることがわかった時のミリーがまったく警戒の色を見せないのは、彼の抱える屈託をミリーが正当に理解しているからこそなのだとしても、ワタシはそれを知る由もないし、ウィリアムが小さな子どもたちを万引きに駆り立て、盗品であろうTVゲームを家に持ち込んだことに対するミリーの反応が描かれていない点についても、あくまでもあのシークエンスをウィリアムと子どもたちの交情にとどめるのだとしたら、ミリーはそれら犯罪行為を許容範囲としてしまう人なのかと少しばかりモヤモヤしてしまうのだ。駐車場でのほとんど疑似セックスといってオビーとミリーのシーンにしたところで、オープンカーで地獄巡りを続けるジェシーとニコール、ウィリアムたちとのカットバックで天国と地獄を総取りしようと画策するも、前述したように大人2人のウエイトが足りていないせいで不発に終わった気がしてしまっている。果たして87分という短いと言ってもいい上映時間は監督にとっての何らかのチャレンジであったのか、オビーとミリーにそれぞれ5分づつ加えて(前作は97分)ウェイトを与えるわけにはいかなかったのか、おそらくは子どもたちへのフォーカスが散ってしまうことを嫌ったのだろうけれど、それが為されなかったことで映画の全体が散ってしまったような気がしてしまうし、前作に続いてニック・ケイヴ&ウォーレン・エリスの手による絶望と不安の中に差す光を慈しむようなスコアの沁み方に明らかなように、これがそういう映画であることがすぐ向こうに薄く透けているのが見えるだけに、大人たちの流す血も拭ってやることはできなかったのかといささか悔いが残る。何かに滑って足を取られたジェシーがそれは歩道を流れていく血であることに気づき、その流れを見やったその先で地面に突っ伏している死体に言葉を失い混乱にとらわれるシーン、戦場ではないいつもの街角で一人の少年の正気を失わせて追い込む手口の確かさと非情などみればなおさらそう思う。子どもたちの地獄は斯様にぬかりがないのだから。
posted by orr_dg at 21:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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