2018年12月19日

マダムのおかしな晩餐会/私はあなたのメイドではない

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オフィシャルサイト

まさかのロッシ・デ・パルマを泣かせては下層からの一発を誘うアイディアが秀逸で、本来なら黙っていても身を置くところなどない彼女の心身の厚みを身の置きどころのない感情で揺らしつつ、その身ぶるいが次第に砂上の楼閣を崩していく時のマリアが、ついには「たとえ私が、お盆にのせた紅茶をマダムにお持ちする人間だとしても、私にはマダムと同じ価値がある。なぜなら私たちは同じ人間なのだから」と言い放つスノッブ上等な足取りでアン(トニ・コレット)の元を去るラストの爽快なメランコリーが、その始まりからいかに遠くまでジャンプしてみせたかをてらいなく告げていたように思うのである。スタイルとしてはコメディで述べられている以上、マリア以外の人間は片っ端から滑稽なクズとして描かれてはいるものの、パリの浮き草として上っ面を漂うアメリカ人とイギリス人とフランス人に対するスペイン人移民という図式のそれなりな露骨に加え、男に寄生して成り上がるサヴァイヴァーとしてのアンにはかなりあけすけな筆使いでスノッブが貼りつけられるばかりか、奪った者はやがて奪われるという因果でとどめを刺すことすらも厭わず、しかしアンに彼女の言い分としての空虚を許すあたりの手綱さばきは、生粋のクズである男たちとそれに合わせて自身のクズを選ぶ女たちの哀れみまでも連れてきて、その辺りの真綿で首を絞めかけるようなチクチクするレイヤーは女性監督ならではの絶妙で巧妙な仕上げであったように思うのだ。マリアが初めてアンに正面から中指を立てるシーン、からくりを知らないマリアがデヴィッド(マイケル・スマイリー)の愛は真実の愛だとムキになるにつれ、「あなたがどうやって彼をたらしこんだのか知らないけれど、あなたは家政婦であって売春婦ではないでしょう?いいかげん身の程を知りなさい」とアンのボルテージも上がっていくのだけれど、かつてボブ(ハーヴェイ・カイテル)をたらしこんで奪い取った彼女にとってすべては人生をかけたゲームでありそのプレイヤーであるという本質が問わず語りに暴露されることになり、しかしそのゲームで彼女の犯したミスによって10年来の有能なメイドを失うと共に新たなプレイヤーによっていつしかボブも奪われていくのである。一方、それまでとは打って変わったシックな装い(アレではない黒いパンプス!)で歩いていくラストのマリアが手に入れたのは抑え込まれていた自尊心とプレイヤーとしての野心であり、それは夢物語ではないハッピーエンドをマリアが書き換えた瞬間であったようにも思え、監督が示したこの解放は現在のこの世界において非常にスマートかつアグレッシヴに感じられたのだ。ロッシ・デ・パルマと抜き身で渡り合うトニ・コレットの、神経を鞭のようにしならせて打ちすえる佇まいは今が彼女の黄金期であることを朗々と謳い上げているかのようだし、なにより長編2作目にして素晴らしい猛獣使いであることを証明したアマンダ・ステールという監督/脚本家の名前を記憶しないわけにはいかないだろう。緊張に耐えかねたような邦題はいまひとついただけない。
posted by orr_dg at 00:05 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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