2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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オフィシャルサイト

ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
posted by orr_dg at 23:20 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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