2018年12月07日

ギャングース/ギュードン・コーリング

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町並みに埋もれるような一軒の牛丼屋にああまで優しく暖かい光が差し、何ならそこに聖性すら漂わせてみせたあのラストこそこの映画が目指した場所であったのは言うまでもないのだけれど、本来ならばこの映画に泣き笑いすべき人たちはおそらく映画など観る状況にないのだろうことを思えば、3人が並んだカウンターの背後で知ったような口ぶりの高説を垂れるサラリーマン、しかしあれが世論として大手を振る吐き気のするような界隈がこの国にはあるわけで、に中指を立ててむかつきをおぼえる観客を一人でも増やすことがこの映画の可能性なのだろうと、少しだけ遠い目などもしてしまうのだ。いったい誰に届けようとしているのか薄気味悪いほど顔の見えてこない、青空に祝福され栄養の行き届いた青春映画の裏通りで一杯の牛丼に涙を流す若者たちのピカレスクはあまりにも馬鹿正直でそれゆえ不発でもあり、しかしそれでも傷だらけで笑い続けるサービス精神が痛々しくて愛おしくて仕方がなく、臭いもののふたを蹴破ってデオドラントされた世界にリアルな臭いをぶちまけることを自らに課した原作から一本の映画へと幸福な着地をすればするほど沁みてしまうメランコリーこそを、映画を観たワタシたちは自分のものとして持ち帰らねばならないのだろうと考える。ゆらゆら揺れる青白い炎のような原作の輪郭を実写の輪郭に息づかせたサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の造型はすでにそれだけで勝利だし、さすがに3人ほどの深掘りは叶わないにしろ安達(MIYAVI)や加藤(金子ノブアキ)といった敵役にも可能な限り言い分を与えていたのも原作の理解あってのことだろう。その分、原作ではカズキたちを金と人情でバックアップする魅力的な存在だったチャイニーズマフィアのヤンくんまで手が回らず、高田(林遣都)あたりにそのキャラクターが吸収されてしまったのはやむを得ないところではあるのか。砂を噛むような風景の中で血の味を口に感じながら立ち尽くしたまま、それでも遠くを見続ける者たちへの共感と救済を使命感のように描き続ける入江悠監督がロードサイドや河川敷に灯す明かりが吹き消され辺りが真っ暗になってしまわないよう見守るのはワタシたち観客の責任であるに違いない。それにしても、そんな風な映画ばかり観てきたワタシは、最後にダンプが牛丼屋に突っ込む光景が一瞬ちらついたものだから慌ててそれをかき消したりもしたよ。
posted by orr_dg at 16:23 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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