2018年12月05日

へレディタリー 継承/ごめんで済んだら母親はいらない

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ハネケやファルハディ、最近だとオストルンド作品を観ていて、これはもうほとんどホラーだな…とつぶやいてほくそ笑む、ほとんどホラーなその先の薄昏い角を曲がっていっそホラーにしてしまえば、もっとしたたるような「他人の不幸は蜜の味」が搾り取れるに違いないとアリ・アスター監督もまたほくそ笑んだかどうかはともかくとして、私が私であるがゆえ逃れられない存在の激痛に催す吐き気のような神経戦に、その激痛をもたらす“もの”を具体化して絶望をなお直截的にするホラーの語り口を外科手術の緻密で縫い合わせることで、ロウブロウとハイアートを横断し折衷した新種の昂揚(まさにあのラスト!)に触れた怖気を持ち帰ってきた気がずっとしているし、それを切らしたくないという思いに囚われている気もずっとしているのである。したがって、この映画の怖さというのはメメントモリ的な死の脅威というよりは、世界の法則から外れた人間がどのように変質していくのかを無慈悲に見つめ続ける視線にこそあり、オープニングでアニー(トニ・コレット)の作るドールハウスに侵入していくカメラは、これが忌まわしく大いなる意思によって俯瞰され導かれ作り上げられた物語であることをその視線で告げることとなる。起こったことがドールハウスで再現されるのか、ドールハウスで作られたことが起きるのか、既にアニーがある種の依り代となっていることは、冒頭の葬儀シーンで紋章のペンダントをしていることもうかがえるわけで、母親に精神支配され続けた娘がその呪縛を打ち払いつつ刻み込まれた自身の狂気とも闘い、しかしついにはそれらに呑まれ敗れていくその哀しみがホームドラマとしてのこの物語を透明で硬いペシミズムで覆うことでホラーのハシゴを外したとしてもそのまま成立する強度を持ち得たようにも思っている。対象にフォーカスした同一ショット内に霊体の気配を配置し、しかしその存在は観客にしか視えていないというJホラー的なショックシーンを排しつつ、しかしある一点でここぞとばかりに繰り出したケレンには小さく声が出たし、視えているのに視えていないショット、例えば授業中にいきなり振り向いてピーター(アレックス・ウルフ)を凝視するブリジット(マロリー・ベクテル)や遺族の集まりで一つだけ空いた椅子、ピーターの部屋の窓越しに見えるいつも灯りのついたツリーハウス、といったあたりの漂わせ方で知らず毒が回っていく。また、アニーがジョーン(アン・ダウド)の家に向かうシーンやピーターが学校で授業を受けているシーンなど、家の中のシーン以外ではほとんど同一のショットを繰り返すことによって全体の閉塞が緩むのを絶妙に回避もしている。おそらくアリ・アスターという監督はことさらホラーの文法で綴っては観客を怖がらせようとする意識もさほどないまま、状況を反映させる感情を忠実にデザインした結果がこうなったに過ぎず、さすがに家族同士が字義通り首の刈り合いをする物語を着地させる術が手持ちにないためその点を悪魔に頼ってみたのだろうし、一番怖ろしいのは人間であるという今さら陳腐でしかない物言いを衒いなく言ってしまえるのも、妹チャーリー(ミリー・シャピロ)の首を飛ばした翌朝のピーターを襲う、死んだ方がマシなのに死ぬことすらできない僕はすべてが夢だったことに賭けてみたがそれもあっけなく潰えた今この瞬間、死ねない僕を誰か殺してくれないかそれも核ミサイルの人災や大地震の天災によって、という薄ら寒い希死念慮であったり、それを口に出したらもう引き返すことはできなくなるその一線をアクセルべた踏みで破壊的に超えていく食卓のシーンであったり、といった人外によるアタックとはまったく無関係なシーンこそがこの映画のピークで針を振り切っていたことに明らかで、おそらくこの監督のフルスペックはホラーのくびきから離れたところでこそ世界に轟くのだろうと考える。あけすけなドールハウスショットで展開する、オマエが燃えるんかい!の爆発的な緊張と緩和の達成が知らしめる監督の浮世離れした暗闇を指さして、やっぱりこの人は悪魔だった!とほくそ笑む未来をワタシは待ち望んでやまない。
posted by orr_dg at 03:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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