2018年11月30日

斬、/悪い人たち

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※未見の方スルー推奨

暗転した途端、身構える間もなく石川忠渾身のインダストリアルビートに打突され、その響きは次第に烈しい間合いで刀工が鉄を打ち据えるハンマービートへとなだれ込んでいく。内臓の深いところまで易々と響くそのリズムとそれに踊る灼熱の炎、そして叩かれるほどに生命を獲得していく鋼の塊が喘ぐように放つ、官能といってもいい芯からの光に魅了されることで、人を斬り、殺すためにこの世に送り出される刀という武器をあっさりと受け入れるに至る監督の悪魔のような手口によって、ワタシたちはのっぴきならないところから歩を進めることを余儀なくされてしまい、ああこの炎は『野火』のラストで田村が暗闇に見る炎だったのかと気づくのは、何度か反芻してみた後のこととなる。そんな刀の一本が都築杢之進(池松壮亮)という若い浪人の手に届くも、肉体的には人を斬る準備が十二分に仕上がってはいるものの精神として人を斬る術を知らぬ彼は肉体の昂ぶりをしばしば放ってやらねばならず、それは自分に課した日々の鍛錬が行き着く先は人を殺すことであるというその理を見失わないための儀式であるようにも映る。澤村次郎左衛門(塚本晋也)と素浪人の果たし合いを見ていた杢之進が、一瞬の交錯の後で素浪人の右手のひらが深々と割られ肉が覗いているのを確認するやいなや決着を見届けず立ち去ったのは、その眼力で勝負を見切ったのと同時に、刀が肉体を破壊したことの小さいけれど確実な衝撃にもよっていたのだろうと考え、ここで既に杢之進のナイーヴが始まっている。物語としては杢之進のイノセンスを澤村のギルティが犯そうとにじり寄っていくのだけれど、両極でスイングすることの多い塚本作品ではめずらしく、「俺たちは悪いやつにしか悪いことしねえよ」とうそぶくイノセンスとギルティを混濁させた源田瀬左衛門(中村達也)という浪人が杢之進と澤村の拮抗を崩す者として登場し、ある意味で澤村の思惑通り杢之進を破壊していくこととなる。命のやり取りをするに及んでなお真剣を取らず木の棒を掴む杢之進に「てめえ、なんだそれ」と哀しげとも言える怒声を浴びせる源田は、一周することで人を殺めることの意味と理由を我が身に染み込ませてきた男で、役回りとしては同様にイノセンスとギルティを内在させながらそれを意識していないゆう(蒼井優)とはその立つ場所が螺旋状に異なっている。そしてすなわち、ワタシたちとしてのゆうは無垢と無知ゆえ状況に対しては犯罪的とすら言ってもよく、けっして澤村のギルティだけが最期に杢之進という怪物を生み出したわけではないことを忘れぬよう、監督は残酷を承知でゆうを当て馬としたように思うのだ。倫理的な説諭が目的であれば当然のごとくギルティはイノセンスに敗れ去るはずが、ここで描かれるのは怪物が誕生するプロセスとそこに加担した人々の振る舞いで、しかもそれぞれの人物像は誤解のないよう両義性すらがきちんとデザインされて提出されており、その直截性にワタシは塚本晋也監督の苛立ちのようなものを感じたりもしたのだ。それはおそらく自分の内部に発生し居ても立ってもいられぬ焦燥と、自分を取り巻く世界との乖離がそうさせている気がしていて、その世界にはもちろんワタシたち観客も含まれているに違いないと思うのだ。これでもまだ分からぬかということである。監督のすぐ側でそれを嗅ぎ取ったであろう池松壮亮、蒼井優という傑出した俳優は、自身のフィルターの目を微細に研ぎ澄ますことで解像度と透明度を高めつつ、ワタシ達はもう武器を手にして変質してしまい善いものではなくなっていることを知らねばならない、そしてこれ以上悪いものにならぬよう、悪いものを生み出さぬようまずは自身を押しとどめねばならない、と伝えることに全身全霊を傾けていてそれはもう愛おしく切ないほどであり、彼や彼女の流す血と涙で濡れそぼった映画の艶めかしさはすべてから独立した一匹の生き物のようにすら思えた。杢之進に割られた腹からこぼれ落ちる澤村のはらわたを、おそらくは手の込んだ造型とギミックを仕込んでおきながらコンマ数秒のカットで使い捨てる透徹したダンディズムに思わず歎息が出る。そして全篇が石川忠へのレクイエムとなっているのは言うまでもない。
posted by orr_dg at 01:29 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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