2018年11月23日

ライ麦畑で出会ったら/ぼくはたぶん間違ってない

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オフィシャルサイト

今ここでセックスしたらぼくはホールデンでなくなってしまう!というジェイミー(アレックス・ウルフ)の笑うに笑えないイノセンスの蹉跌を救うのは、実はJ・D・サリンジャー(クリス・クーパー)その人というよりはディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だったわけで、おそらくはビート・ジェネレーションであろうヒッピーライクな両親によって自由闊達な精神を育てられた彼女こそが、ホールデン・コールフィールドの過剰摂取によるジェイミーの自家中毒を解毒していくことになる。何しろ彼女の造型が愛おしいほどにタフでチャーミングなものだから映画が彼女を頼りすぎて少しばかり楽をし過ぎたきらいはあるけれど、ホールデンが憑依したジェイミーが求めて叶わなかった愛情のあらかたを与えるためには彼女くらいマイティな存在が必要だったのだろう。そして少し驚いたのはサリンジャーが一人の独立した人格として物語に関わってくることで、もちろんクリス・クーパーの相貌はマッチしていないのだけれど「ホールデンもフィービーも私のものだ」という彼の強固な拒絶は、ジェイミーまたは世界中のジェイミーに向けた「きみはきみ自身のホールデンをみつけるべきだ」というメッセージの裏返しであることをこの映画は伝えようとしていて、隠遁した神としてのサリンジャーではない、真摯な一人の表現者としてのポートレイトを誠実に描いてみせたように思うのだ。そんな風にサリンジャーはその言葉で、ディーディーはその息づかいで、肝心なのはスタイルではなくアティテュードであることをジェイミーに告げていて、その普遍ゆえ物語の収まりとしてはステレオタイプとなるのはやむを得ないにしろ、ことさらにカウンターを求めて感情を乱反射させることのない綺麗な一本の筋を保とうとする密やかな緊張が心地良いし、何と言っても16歳の男の子と女の子が自ら車を運転して約束の地を目指すロードトリップなどアメリカの神聖な儀式以外の何ものでないに決まっているのである。しかしその早熟こそは誰もを世界の頭数としてカウントするアメリカがけしかける平等と責任による避けがたい呪いでもあるわけで、サリンジャーの描いた透徹したイノセンスこそはそれらに向けて立てた中指であったことをあらためて考えてみたりもして、思いがけず忘れがたい映画になった。
posted by orr_dg at 14:27 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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