2018年11月19日

ボーダーライン : ソルジャーズ・デイ/命が邪魔だ

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マット(ジョシュ・ブローリン)の足下にビーチサンダルではなくクロックスを見つけた時の、どこかしら埒内につかまった違和が最後までついて回ることになる。暴力はすべての初めから我々と共に在ったもので、理性はその気まぐれな反動としてもたらされたに過ぎない、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で書いた(意訳)、その理性が屠られる場所で解き放たれた聖なる重力の象徴であったビーチサンダルは、神を自認するアメリカが天上からばらまくクロックスに取って代わられ、重力を恩寵としていたマットとアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は浮力を失い俗世の地面に激突して流血せざるを得なくなり、その引き金となるのが失われたアレハンドロの娘の亡霊ともいえるイサベル(イザベラ・モナー)であった時点で物語は無間地獄の様相すら呈し始め、それはまるで荒野から追われたケイトの呪いでもあるかのように2人を狙い撃ちして国境に追い込みをかけていく。どこかしらマジックリアリズムの夢うつつですらあった前作の暴力絵巻は、直截のスペクタクルで生死の際を粗雑に投げ出しては麻痺した痛みを取り戻そうと躍起ではあるけれど、重力の失われた場所でなおステップを踏み続けるマットとアレハンドロのメランコリーは、絶望の底を踏み抜いても新たな絶望があることを知る者が弾切れや手傷の深さで世界を測る時の倦怠でしかないことは、マットがイサベルを、アレハンドロがミゲル(イライジャ・ロドリゲス)を抱き込むことで闘争の未来を告げるラストに明らかで、題をとる現実に対して誠実であろうとすればここで物語が終われるはずなどないことをテイラー・シェリダンはアレハンドロのセリフに託したのだろうと考える。時として現実のスピードと力に打ち負かされてしまうのはフィクションの宿命とは言え、その両者が運良く並走した時のスリルとしては最良の時間がここにはあって、この映画が色褪せるとすればそれは世界の安寧が果たされた時ということになるわけで、当初より3部作で構想されるこのストーリーの次作でケイトがどのような重力をまとって復帰するのか、イサベルとミゲルの交錯がどのような世界の法則を叩きつけるのか、その時マットとアレハンドロは息をしているのか、現実が追い越すか映画が出し抜くか、できればヴィルヌーヴとディーキンスでその先を見届けたいと切望する。
posted by orr_dg at 20:51 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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