2018年11月09日

ハナレイ・ベイ/ずっとわたしを過ぎるもの

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オフィシャルサイト

大胆と言ってもいいラストの書き換えによって、サチ(吉田羊)が彷徨した喪失の日々にハッピーエンドと言ってもいい再生の光が差すこととなる。したがって、その手続きとしてのストーリーはサチがいかに涙を流すか、涙を流させるかという変転を描くことになり、どこへも往かぬ中空で揺れ続ける人生の静かな暴力性が支配した原作に、イギー・ポップやら何やら手を替え品を替えして道筋を与えることでその暴力をなだめた監督の脚色は、見事とかいうよりはそのためらいのない所業に感服したわけで、おそらく監督は村上春樹という名前にも作品にも過分な畏れを欠片ほども抱いていないのだろう。とはいえ端々で見受ける映画オリジナルのエモーショナルな継ぎ目以外は、村上春樹作品の彩りともいえる漂泊/漂白の白い空気をそれなりのグラデーションで掴まえているし、なかでも、原作では名前もないまま「ずんぐり」としか呼ばれない日本人に高橋という名前を与えては、精神の奥底が本能的に水平な村上作品のキャラクターとして映画的な立体を備えさせ、それを演じる村上虹郎の的確な解釈による好演も手伝って、ただでさえ狭いストライクゾーンのぎりぎり角をかすめるコースには投げ込んでみせたように思うのだ。基本的には密やかな幽霊譚である原作から真っ向の幽霊譚へと舵を切ったあのカットや、うつむき加減にそよぐカーテンが運ぶその黒沢清的予感を含め、ハワイの陽光の下にイデアとメタファーをもろともに晒したそれはクソ度胸なのか冷静な計算なのかはうかがいしれないにしろ、あらかじめ昏睡したような原作の目の覚まさせ方としては、頷けるところのあるやり口だったのではなかろうか。ただ、ある情動の状態を実体化させて補助線とするために脚色されたツールとしての手形は正直言ってあまりうまく機能していないと思うし、サチを決壊(=プライマル・スクリーム)させるトリガーとしては紋切り型が過ぎたというか座りが良すぎたように思ってしまう。たった一度だけサチが吉田羊の顔になっておそらくは手持ちであろうカメラを笑顔で見つめる、挑戦的なのか気晴らしなのかわからないカットがあったのだけれど、それが、その後陽光の中でしばし冥界を彷徨うことになるサチの「生前」最後の笑顔のつもりなのだとしたら、やはり想像以上に食えない映画であり監督であったということになり、解放されないハワイを閉じ込めた近藤龍人の鎮めるようなカメラがその共犯となる。
posted by orr_dg at 15:42 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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