2018年11月02日

search/サーチ #FatherKnowsBest

searching_01.jpg
オフィシャルサイト

PC画面ですべてのカットを構成する縛りはあくまで手法にとどめ、登場人物たちの感情の移ろいそれ自体はあくまでオーソドックスかつ細やかに描写されていて、紋切り型で陳腐なデジタル世代の断絶(邦画に顕著な陥穽)的なメンタリティの先へ伸ばしたその手つきこそがこの映画の清新となっている。言ってしまえば、ここにあるのはデヴィッド(ジョン・チョー)とマーゴット(ミシェル・ラー)のキム親子、ローズマリー(デブラ・メッシング)とロバート(スティーヴン・マイケル・アイク)のヴィック親子というそれぞれに事情と問題を抱えた親子がすれ違ったことで足を踏み外す運命の翻弄が綴る物語であって、その光と影、ポジとネガという裏表を入れ替えてヴィック親子の物語へと舵を切ってみても成立する複層が、飛び道具としてのスタイルに重心と奥行きをもたらしていたように思う。とは言えこうしたネットワーク無双なスタイルを前にすると、あらかじめインターネットのなかった世代としてはノイズぎりぎりのバイアスがかかってしまうわけで、あらかじめインターネットのあった世代にとってネットはテレビやラジオ、出版といったメディアと同列のフィクショナルな世界で、その中で様々なデジタルデータの意匠によって構成された自分の存在を意識と無意識で混濁させながら現実と非現実を行き来するその姿は果たして「新しい人」なのか「誤った人」なのか未だにワタシは測りかねていて、例えば劇中で自分の現在地をクリップしたまま糞リプを垂れ流してはデヴィッドに顎を割られる若い衆などその典型で、あらかじめインターネットのなかった世代としてはそれが現実の世界にどうやって根を生やしていったのかをその功罪と共に嫌というほど見てきただけに、どこへどう潜り込んだところでネットは現実でしかないという認識が揺らぐことはないし、そこへ自らを無防備かつ無邪気にに白紙委任してしまう危うさと脆さへの警戒が薄れることは今までもこれからもあるはずがなく、してみるとおそらくはそちらの世代であろうデヴィッドがしばしばみせるタイピングの逡巡も無意識の自己防衛に思えたりもしたのだ。しかし、そうやって記憶=記録へと混濁していく世界だからこそデヴィッドは結末にたどり着けたにしろ、いつしか頭をよぎるのは、なぜレプリカントは写真を集めたがる?というデッカードの呟きだったりもした。
posted by orr_dg at 03:22 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: