2018年10月29日

デス・ウィッシュ/マッドネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

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オフィシャルサイト

ことさらフェティッシュに自失することもなく、たがを外すにしても理性と批評眼を端正にたずさえてルサンチマンめいた死体蹴りをすることもない、要するに感心はするものの熱狂にはタッチの差で至らないいつものイーライ・ロス映画だったわけで、それはおそらく自分の資質を理解しているからこそ、いくら露悪的にふるまってみたところで底を見抜かれるだろうことを先回りしてはりめぐらした予防線がそう感じさせるように思ってしまうのかもしれない。ブロンソン版のポール・カージーは、70年代に顕著だったオーヴァーキルな復讐者として暴力衝動に喰われて怪物化していく市井の男であり、それを警部が代表する正義のセンチメンタリズムが肯定することでヒロイズムを獲得することになったわけだけれど、劇中における彼の覚醒の経緯を今日そのまま再現すれば政治的な物議を醸すのは必至にちがいなく、それらをすべてオミットしてまでポール・カージーを蘇らせる必要があったのだとすれば、それは暴力の連鎖によって自らが放った銃弾に全てを奪われた彼を磔にする凄惨な悲劇となるしかなかったように思うのである。そうしてみた時、怪物の断末魔をまるまるミュートする気の抜けた復讐譚のどこにリメイクの必然性があったのか疑問に思うのは当然な上、フードで顔をおおったブルース・ウィリスの烈しくシャマランな既視感といい、少なくともブロンソン版が獲得していた同時代性の欠片も見当たらないこの行儀だけは良いリメイクは、あわよくばポール・カージーをフランチャイズ化したいだけのおためごかしとしか思えなかったのが正直なところで、ほどよくデオドラントされたジョー・カーナハンのシナリオもその意に添ったということになるのだろう。片目を閉じた時代に描かれた作品を新たに描き直す時に、両目を開けるバランスを投入するのではなく片目でしか見えない世界を意識的かつ批評的に捉えることをしなければ、そこには均された角度の総花が映るだけで片目が映さなかった世界が闇の中から浮かび上がることがないように思うのだ。牙を抜いたなら、まだ血のついたその牙を映すべきだろう。
posted by orr_dg at 15:41 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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