2018年10月25日

バッド・ジーニアス 危険な天才たち/わたしたちが得意だったこと

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オフィシャルサイト

ちょっとした叙述トリックをある時点でネタバラシしてしまうことで、ああこれは青春のピカレスクとしてゴールを切ることになるのかなと匂わせておきながら、まるでそれが合図でもあったかのように映画は一気に青春の蹉跌へと舵を切り始め、リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの涼やかながらドスの効いた目と暴力的な頭身が最大限の効果を発揮して神経を苛み始めることとなる。したがって『ザ・カンニング [IQ=0]』がそうだったように反逆の中指としてのカンニングというよりは、先ほど触れた叙述トリック部分の構造的な参照など含め、どちらかと言えば『ソーシャル・ネットワーク』的な青春の孤独と破滅のストーリーに映画は身を寄せていくわけで、最後にリンが選択した罪と罰によって持たざる者が持つことを願った日々の狂騒からすくい取られた哀しみの上澄みがこの映画の儚いきらめきとなったように思うのである。したがって、その狂騒のボルテージが高出力であればあるほどその断絶が烈しく切なく行われることになるのだけれど、それにしたところでカンニングという行為そのものがリンという才能を下層から上層へと苛烈に吸い上げる搾取の構造を次第に隠さなくなっていくことで、コンゲーム的な痛快や爽快が一線を越えた捨て身の大博打へとサスペンスの色を変えていくこととなり、その切り刻み方の容赦のなさこそがこの映画のハイジャンプを決定的にしていた点で、神経症的な残酷ゲームのスピードこそが今日性の象徴であることを良くも悪くも叩きつけられた気がしたのだった。仮にハリウッド・リメイクがなされた場合、あのラストはまず確実に変更するだろうなという親がかりの勧善懲悪がいっそう傷口に塩をすり込む。いったいこの父親からなぜチュティモン・ジョンジャルーンスックジンがという言うその父親はほとんど村上春樹なのだった。
posted by orr_dg at 00:20 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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