2018年10月13日

運命は踊る/不幸なことに幸運

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戦争国家においては自業自得の事態だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、この独自の視点はそうした国に生まれ育った者だけが持ち得る角度によっているわけで、声高かつリアルな息遣いで反戦を叫ぶというよりは、場合によっては世界のどこでも起きうる話として寓話の攻撃的な曖昧さで戦時下の憂鬱と倦怠、すなわち厭戦の気分を垂らしていく浸透性が新鮮かつ有効に思えたのである。軍が戦死の報を家族に告げる際の、そのショックに応じてあらかじめ薬物投与の注射器まで常備する効率化されたルーティーンワークは、遺族の感情などおかまいなしに送り込まれた軍付きのラビが淡々と進める葬儀の準備と進行の段取りにまで及び、しかしそれには同姓同名の戦死者を取り違える誤報であったという杜撰で間抜けなオチが用意されているわけで、全体としては三幕構成となるその第一幕において戦争というよりは軍に対する潜在的な反感と嫌悪があぶり出されてくことになる。当の兵士ヨナタン(ヨナタン・シスレイ)の父ミハエル(リオル・アシュケナージ)は、イスラエルにおける富裕層かつ知識階級にくくられるわけで、そうした舞台仕立てによってこれが階級闘争的に立てられた中指でないことをあらかじめ告げておくあたり国家の強権に対するアスガー・ファルハディの手さばきに通じているようにも思うし、してみればこの映画がイスラエル国内の右派から攻撃されたのも至極当然に感じられたのである。しかしこの映画が残酷でユニークなのは、前線からは遥か彼方のどこともしれぬ地の果ての検問所でヨナタンが過ごす奇妙に弛緩した日々を描いた第二幕によっていて、いったい自分はここで誰と何のために戦ってるんだろうか、と戦争の全体性が次第にデカダンスへと沈んでいく黒いオフビートは『キャッチ22』や『M*A*S*H マッシュ』といった先達を彷彿とさせつつ、しかしこの状況における最低最悪の幕引きがそこには用意されているわけで、一見したところ第一幕と第二幕がもたらした罪への罰として描かれる第三幕は、それと同時に喪失から再生へと向かう道筋とも言えて、第一幕では軍の投与した薬物によって激情をコントロールされた母ダフナ(サラ・アドラー)の感情は、この第三幕においてヨナタンの形見のマリワナによって解放されていくのだけれど、彼が最期に描いた絵の本当の意味をミハエルもダフナも永遠に知り得ることがない皮肉がイスラエルで戦争の庇の下で生きる人々へ向けられたことを考えてみれば、そこにはテルアビブに生まれレバノン戦争で戦ったサミュエル・マオズ監督の中道的な憂国がうかがえるのは確かなわけで、時折り決め打ちすぎる狙いが透けて若干鼻につくきらいがあるにせよ、運命の引き金を引くのはあくまでそこにあって逃れがたい現実であることをシニカルだけれどニヒルに沈まないバランスでしたためたこの映画が、『戦場でワルツを』がそうであったようにイスラエルという鬼っ子のくびきから一時離れて自由で今日的な声を獲得してみせたのは間違いないように思う。
posted by orr_dg at 02:05 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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