2018年10月02日

クワイエット・プレイス/あふれた涙が落ちる音

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オフィシャルサイト

※展開に触れています

これが「ホラー」であれば、サイロのシーンでリーガン(ミリセント・シモンズ)は自身の人工内耳が増幅する高周波がクリーチャーの集音機能との間で起こすハウリングが突破口となることに気づいていたはずで、そうした意味で「ホラー」としては物分かりの良くない話には違いなく、しかしそれは、言ってみればアボット家が「ホラー」的な状況を力を合わせて押しのけることで家族としての絆と生活を全うする物語を描こうとした監督の狙い通りということになるのだろう。したがって、状況の説明とルールを観客に告げるためのオープニング・シークエンスこそ研ぎ澄まされたマナーで描かれはするものの、そこからおよそ1年が経過した後に再スタートする物語はトーンが一新されて、状況の特異ではなく状況下の家族が抱える問題が映画の主眼となっており、言葉が封印された世界のエモーションをバックアップするマルコ・ベラトルミのスコアは情緒過多といってもいい鳴りを隠そうともしないまま、死と隣り合わせの「大草原の小さな家」が粛々と展開されていくこととなる。あらかじめ音を奪われているリーガンにとって襲来後の世界は自身に関する限りさほど変わりがないのだけれど、彼女が苛まれるある出来事にしたところで、彼女はあれが光だけではなくあんな風に音を出すことを果たして知っていたのかと考えてみれば、何をどうするとどんな音がどれくらいの大きさで発生するかを知らない彼女にとっては二重の困難がつきまとうわけで、その苛立ちと哀しみを『ワンダーストラック』でみせたドスの効いた佇まいに塗してみせたミリセント・シモンズの仁王立ちが、この映画を危ういバランスで何とか成立させたように思うのである。とは言え中盤の舵の切り方からすれば彼女だけが知る無音の世界の二重性がさほど活かされることのないまま単なるハードウェアとしてのオチに着地した点で食い足りなかったのは正直なところだし、音を奪い音が凶器となる世界の神経症的な体感をドラマの達成と引き換えに手放していくバランスがワタシには少しばかり邪魔に思えたりもしたのだ。何がセーフで何がアウトなのか、そのラインが恣意的に変動されることでゲームのスリルが失われるのは言うまでもないけれど、「恣意的な変動」が生むドラマの熱情と冷徹な「ゲームのスリル」が混交して、それを望んだわけでもないちょうど良い湯加減になってしまったのはワタシにとってエラーでしかなかったのである。その不条理な機能性に比べ手垢のついたクリーチャーデザインもいささか凡庸であったと言うしかなく、どこにいたとしても次元の裂け目から現れるような名状しがたき佇まいで心をかき乱して欲しかったと思ってしまう。「音を立てたら、即死。」というわけでもない。
posted by orr_dg at 23:09 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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