2018年09月17日

きみの鳥はうたえる/ストレンジャー・ザン・函館

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同い年の佐藤泰志と村上春樹は文壇デビューもほぼ同時期な上に芥川賞ノミネートという経歴で重なる部分もあるにしろ、冴えたやり方に鼻白む「僕」と冴えたやり方を解明する「僕」は、当然のこととして圧倒的に青春を違えていくわけで、自爆するセンチメントとして描かれる青春の蹉跌が時代の気分であった季節だからこそ、佐藤泰志はそこから目をそらすことなく抜き身で斬りかかっていったし、村上春樹は蝶のように舞い蜂のようにその時代を刺してみせたのである。佐藤泰志とその原作に関するそんな記憶をもとにこの映画を観た時、『風の歌を聴け』の中で鼠がロジェ・ヴァディムの言葉として語る「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」というフレーズを思い出したりもして、原作からの大胆といってもいい脚色は、ならば今の時代の僕たちは華麗な真実を目指そうと宣言したように感じられたわけで、ではそれが何だったかと言えば自爆しないセンチメント、すなわち生きることに悪あがきする構えだったように思うのである。原作では僕(柄本佑)への意趣返しにチンピラを雇うというノワールめいた行動に出た同僚が劇中ではどう動いてみせたかと言えば、自ら正体不明の棒きれを持って窮鼠猫を噛むいじめられっ子のように無様で情けない白昼の闇討ちをしてみせたし、その三白眼にノンシャランよりは潜在的な卑屈が宿る柄本佑を「僕」に据えたのも、静夫による母殺しという青春の殺人者を完遂するラストを、大いなる不発としての「僕」へと変奏するための手続きに思えたのだ。原作ではあくまで異分子に過ぎない佐知子(石橋静河)の存在をより強力にしたのも、僕と静夫(染谷将太)とのトライアングルを抜き差しならない関係にするためだったのだろうし、あらかじめニヒルな世代にとって虚無への脱走は答えではないという認識はとても正しいと感じる。ただそうなってくると果たして佐藤泰志が必要であったのかという疑問も湧いてくるだろうけれど、何より今のワタシたちには存在を賭けてのたうち回る人が必要に思えて、青春に唾した人間が自分の成熟をどこに見出すのか、いつまでたっても冴えたやり方の見つからないワタシたちが佐藤泰志をあてにするのは自然な成り行きにも思えるし、『海炭市叙景』も『そこのみにて光輝く』も『オーバー・フェンス』も、それに関わった人たちそれぞれが新しい答えを見つけようと必死であった点にもそれが伺えるように思うのだ。たとえそれがスマホとLINEの水平世界に置き換えられようと、むしろそうだからこそ「僕」は走り出さなければならなかったし、佐知子は途方に暮れなければならなかったわけで、あのラストにはここから先はもう生きることが避けられないのだという佐藤泰志の烈しく清冽な意志が灯されていたことは間違いがないだろう。流麗で透明な蒼い夜から一転して白昼にさらけ出された異議申し立ての真摯で決定的な居心地の悪さこそが佐藤泰志のスピリットであったし、乾ききれない情景をためつすがめつ捉え続けるカメラの呵責のなさがラストカットの佐知子に集約されて少しばかり凶暴でもあった。
posted by orr_dg at 16:01 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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