2018年09月11日

寝ても覚めても/ベランダから永遠が見える

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最初、朝子(唐田えりか)はドッペルゲンガーだと思ったのだろう。ドッペルゲンガーという言葉を知らなかったとしても、世界が自分につかわした運命に障る何かだと思ったのだろう。麦(東出昌大)が消えた時に持っていった自分の半身が、麦の形をした他人=亮平(東出昌大)となって帰ってきたと思ったのだろう。ならばそれを受け取った朝子が自分の空いた半身におさめれば済む話だし朝子はそうしてみるのだけれど、愛は共同幻想ではなく世界に2つと存在しない自分だけのリアルなのだとする組成へ、かつて麦によって変質させられている朝子は、その自覚と認識を知りえないがゆえ横たわる違和感とひとり向き合いながら自分を亮平と重ねて生きるべく苦闘する。鳴り響く爆竹の音が現実にひびを入れた日の麦との出会いを、地震が現実にひびを入れたあの日に朝子は亮平と繰り返してみせるわけで、その後描かれる亮平との福島への旅は朝子にとって共同幻想としての愛を身体になじませる静養の時間でもあったのだろう。だからこそ、亮平と過ごす朝食のテーブルで自分だけ「パン」を食べる朝子の姿がまとう不意打ちのような禍々しさに慄然としたし、それから先は「それ」がいつどんな風に彼女のところへやって来るのか、潜在的にはそれを待ちわびつつも恐怖する朝子の分裂はほとんどホラーの趣となっていき、ついに「それ」が朝子と亮平の前に現れる瞬間のほとんど幽霊映画といってもいい角度と速度の精度には思わずおかしな声が出かかったりもしたのである。その先で「それ」によって完全変異を成し遂げた朝子が、ああ、この世界の在り方をワタシは亮平に伝えなければならない、なぜならワタシは彼を愛しているからだと彼の元へ向かうことになるのだけれど、逃げる亮平を朝子が追いかけるシーンをとらえたロングショットで陽の光が2人の後を追って射していく聖俗すら超えた絶対性はそのままさらに戦慄するラストショットへと繋がっていき、朝子が示した世界に「きったねえ」と吐き棄てる亮平と「きれい…」とつぶやく朝子がじっと見つめるその先のワタシは果たしてその世界を見ているのか知っているのか。そういえば一度でも朝子はまばたきをしただろうか、とそんなことを考えて気を逸らさなければならないくらいあのショットにはおびやかされた。生気に乏しいわけでもないのに何を考えているのかまったく明瞭でない朝子が繰り出す、しかしドスのきいた断定の言葉が鈍器で殴られたように効いてきて、これ以外に朝子というキャラクターを成立させる術はなかったのではないかと思わせる演技と演出のプランとフォーカスが超絶であったというしかない。それにしてもパン、甘くないパンである。亮平も、そして朝子ですらが知らないパンのことをワタシが知っている映画の寄る辺のなさに震える。久しぶりに『アナとオットー』を見返したくなった。
posted by orr_dg at 00:02 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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