2018年09月05日

高崎グラフィティ。/大人みたいに悪いこと

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オフィシャルサイト

オープニング、吉川美紀(佐藤玲)をポートレイトのようにとらえたカメラが少しだけ後ずさると、彼女がおさまっているのはトイレのありきたりでせせこましい鏡の中で、自分で自分を睨みつけるその視線をさっと外してトイレから廊下へと歩き出す美紀の背中を追いかける青い癇癪と焦燥と性急がこの映画の色合いを一発で決定している。それを言い換えればここではないどこかへの希求とモラトリアムの嫌悪ということになるのだけれど、それが世界を壁際まで追い詰めて喉元を締め上げる気配に至らないのは、騒動の元凶となる美紀の父に渋川清彦をコメディリリーフ的に配することで生まれた浮遊感をそのまま青春のファンタジックな薄皮とした設計によっているのだろうし、それは定型に抗うためには定型を踏んでいかねばならぬという監督の決意でもあるのだろう。それが奏功するのは彼や彼女が攻防一体で相手を刺しにかかる時で、もうお互い制服とかいう鎧を脱いでしまったから刺せば血は出るよねという甘噛みの先を解禁することで解放されていく姿こそを監督は描こうとしたのではなかろうか。しかし、あえて配置した定型が無言の早足を減速させてしまう危険もあるわけで、例えば早朝のアーケードを走り抜けるシーンのスローモーションはここで使ってしまうのは少し早過ぎやしないかと思ったし、終盤で時ならぬ命がけに歯を食いしばる阿部優斗(萩原利久)によぎる刹那のフラッシュバックにこそとっておくべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、やはり若者が世界へと蹴り出される「前夜」のビタースイートを描いた『アメリカン・グラフィティ』がそうであったように5人の彷徨をワンナイト・ストーリーに凝縮することで、ラストを美紀の自宅での朝食シーンで閉じて新しい日常の光景が定型を蹴り出すところを観たかったなと思ったりもした。とは言え渋川清彦に加えて川瀬陽太まで配する贅沢と拮抗するだけの灯りはこちら側からも照らされていたように思うし、青春のくすみを蹉跌ではない光の角度で描こうとする気概はもっとあちこちで目に止まるにふさわしいものだろうと考える。もう一度もう一つと言ってしまうけれど、彼女の服飾に抱く想いと亡き母親を紐づけなどできていれば、美紀の反転になお説得された気がしないでもない。ただ、そんな風に惜しいなあと思ってしまうのは、その他のあれこれが惜しくなかったからなのは言うまでもなく。
posted by orr_dg at 01:56 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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