2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

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オフィシャルサイト

これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
posted by orr_dg at 23:07 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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