2018年06月29日

ワンダー 君は太陽/おまえもがんばれよ

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ダメージを背負った主人公が学校という新たな世界で理解者を得ることにより、自分の居場所を見つけて歩き出す物語としては、監督の前作『ウォールフラワー』とほぼ同じ見かけで語られていくのだけれど、実は主人公のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)はあらかじめ成熟した知性とユーモアを持ち合わせていて、人間を見かけで判断する愚かさへのカウンターとしてほとんど記号化された存在といってしまってもいいくらいオギーはオギーのまま頑としてあるのである。したがって、ここで描かれるのは彼よりは彼によって変化を促される人たちの成長譚であり、それは「オギーの見た目は変わらない。ならばわたしたちが変わればいいんだ」という校長先生の極めてプラグマティックな情動の実践ということになる。原作は未読なのでどのような脚色がなされたのかわからないのだけれど、オギーとの関わりで更新されていく人たちを「○○の場合」といった風に章立てした構成にもそれは明らかで、その点でオギーはほとんど狂言回しと言ってもよく、彼に対する同情や憐れみはそのままそれを向ける者へと反射されていくこととなる。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や姉ヴィア(イザベラ・ヴィドウィッチ)がオギーの家族となったことで舵を切り直したその人生も、オギーのいない場所で語られる衒いのない口調によってその笑顔に重ねられたレイヤーの模様をワタシたちは知ることになるし、オギーとヴィアそれぞれの親友であるジャック(ノア・ジュープ)とミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)についてもそれは同様に、独り言のあけすけな口調でオギーという舵を語ることによって自身の道筋を確かめ直すわけで、この映画がことさらにウェットな感情を溜めてはそれを涙に絞り出すことをしないのは、そうしたある種の緊張が成熟した人間関係の証として張りめぐらされているからなのだろう。そうしてみた時、ではチャプターを与えてもらえなかったジュリアン(ブライス・ガイザー)がどんな風に自身を立て直したことで修了式の笑顔を見せていたのかを思うと、オギーへの暴力装置として描かれる彼が偏狭な両親の呪縛をどうやって断ち切ったのかを描かないのは、構成上ジャックとの重複が邪魔になるのは承知するものの、慈愛と理性に満ちた大人たちばかりのこの物語にあってジュリアンだけがバックアップされない不幸を思えば、それは少しばかりフェアではないだろうと思ったのである。オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)と母イザベル、トゥシュマン校長(マンディ・パティンキン)、ブラウン先生(ダヴィード・ディグス)、ジャックの母(ニコル・オリヴァー)といったオギーを取り巻く大人たちはみな、自分がこうありたいと思う大人であると同時に、子供の頃に出会う大人たちはみなこうあって欲しかったといういずれの理想も満たす完璧な造型がなされていてほとんど夢見心地ではあるのだけれど、それはすなわち世界の正気を思い出す作業に相違ないわけで、ふだんのワタシたちがどれだけの狂気や邪気をあきらめ顔で受け入れてしまっているのか、その知覚の麻痺に一度愕然とするべきなのだろう。オギーを憐れんでいるつもりのワタシたちこそが、オギーにそっと憐れまれている。
posted by orr_dg at 15:44 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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