2018年06月17日

万引き家族/そして凛となる

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「寒いなあ、雪でも降るんじゃねえか」と治(リリー・フランキー)が祥太(城桧吏)に言ったその言葉が本当になる頃、ではいったい何が嘘のままだったのかというその時間の移ろいを、世間という名前の下世話な予断を迎え撃つがごとくねめつけるように即物的な視線でこの映画は映し続けていく。そこに描かれるのは脱構築家族という監督が幾度となく綴ってきたテーマの極北ともいえる家族のシミュラクラであって、シェルターとして装ったはずのそれが十全に機能しつづけることで自我に目覚め、その結果として血は水よりも濃いという常套に刃向かわざるを得なくなっていく痛ましい純粋を、まるでデッカードを揺さぶるロイ・バティのような哀切で搾り取っていく。治が「それしか教えてやれることがなかった」と語る万引きという行為は、この家族を貫くすべての共犯関係を互いが確認し続ける目配せのような行為でもあり、それが祥太には家族の絆のように映って見えたからこそ、駄菓子屋の主人(柄本明)に妹にはそれをさせるなと優しく諭されたことで混乱し、それが車上荒らしという窃盗へと姿を変えた時に烈しく拒絶をしたのだろう。かつて車上荒らしの車内にみつけた幼い祥太も、りん(佐々木みゆ)と同じようにネグレクトの犠牲者だったのだろうし、そんな彼らを救ったセーフティーネットが救われた彼らの成長によって破壊される皮肉にこそ、あらかじめ機能不全すらを機能と備えた家族とシミュラクラとの悲劇的な差異がうかがえたように思うのである。りんの歯が抜けた朝に初枝(樹木希林)が息を引き取るのもその残酷な代償だったのかもしれない。しかし、社会から隠れた人間たちが社会から隠された子どもたちを陽の当たるところに連れ出したことは確かなわけで、祥太とりんのそれぞれが自分の目と足を頼りに行き先を選んだラストによってあの家に生きた者たちすべての救済としたことは間違いがないだろうし、治と信代(安藤サクラ)はその確信を抱くことによってようやく自らの罪を罪として向き合うことができるように思うのである。そんな中、ひとりだけ孤絶のレイヤーが異質な亜紀(松岡茉優)を投入することで不穏のバランスを崩す「お話」としての配分を厭わない抜け方も鮮やかで、社会を転げ走り回りながらもネオリアリズムの社会派映画として収束される気のない攻め方は図太いことこの上ない。念入りだった信代の化粧がことの後にはすっぴんになっているあたりとか、歯のない初枝が吸い付くようにミカンにかぶりつく姿とか、りんの口に煮込んだ麸が押し込まれる時の角度であるとか、そんなところから人間の質量は立ち上るように思うし、何より先に肉体をフェティッシュな解釈でとらえる視線が官能ともいえる生命の気配をあらわにするからこそ、言わずとも感情に血が透け始めるように思うのだ。初枝が産んだ女の子が信代に育つことは想像しがたいけれど、砂浜で信代に「ねえさんよく見るときれいだね」と言った初枝は、海辺の風に吹かれながらいっときそんな想像をしてみたようであったし、その夢想が初枝を底なしの寂寥へ永遠にとらえてしまったのかもしれないとも思ったのである。その瞬間の兆しとして「わあ、すごいシミ」という言葉を初枝に与えた監督には少し震えがきた。
posted by orr_dg at 00:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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