2018年06月14日

ビューティフル・デイ/死がふたりを穿つまで

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オフィシャルサイト

フロリダにあるモーテルの管理人ボビーは崖から落ちてしまわないよう子供たちをつかまえるキャッチャーだったけれど、ジョー(ホアキン・フェニックス)は不幸にも崖から落ちてしまった子供たちを奪回するファインダーとしてそこにいる。ジョーもまた、かつて崖から落ちた子供の一人だったのだけれど、そこで彼を捉えた絶望と恐怖が、崖を登る道筋を探りハンマーをピッケル代わりに崖を登りきる能力を、その極限で彼に与えたということになるのだろう。しかしそれは崖の下に幾度となく堕ちていくことで自分の過去と向き合い落とし前をつける作業であると同時に、その代償として崖の下の狂気に自らの正気を差し出す続ける行為でもあり、ともすれば深淵に身を投げ出すことでその苦行から逃れる誘惑に折れてしまいそうな日々を、母親への愛情と薬を頼りに息も絶え絶えとなりつつ何とかやり過ごしているに過ぎない。ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ)は崖の下に捉えられつつも最終的な善くないものに喰われてしまわない力を自分の中に育てていて、”You Were Never Really Here(ほんとうのあなたはここにはいない)” という原題こそがその呪文だったように思うのである。そしてそれはかつてのジョー少年がクローゼットの中で無意識に唱えた続けた言葉だったのかもしれず、ジョーに奪回されたニーナが呪文の奥から出てきたのは彼の中にその共鳴を見たからだったのだろう。そうやって束の間、無痛の殻から足を踏み出していたからこそ、モーテルから連れ去られるニーナが叫ぶ「ジョー!」という声には心の底からの絶望と哀しみが込められていたのだろうし、母親を喪ったことでいったんは深遠に沈むことを選んだジョーを押しとどめたのがニーナの幻影であったのは、ジョーの中の深いところに彼女の叫び声が刻み込まれていたことの何よりの証だろう。この映画は、そんな風にして2つの魂が出会い結びついていくラブストーリーを極北のプラトニックで謳う一方、ニーナによって喉を裂かれ事切れた知事の死体を見たジョーは、あの時に父親を屠ることができなかった自分を責めては「おれは弱い、おれは弱い」と慟哭する寄る辺なき戦場の理性でバランスをとってみせさえするのである。それら清らかさと凄惨を繋ぐピアノ線の緊張を担うのがジョニー・グリーンウッドのサウンドデザインで、ほとんどセリフらしいセリフを喋らないにも関わらずジョーの内面に渦巻く激情と虚無を音響として奔出させることによって説明ではなく直観で観客を直撃するよう仕向けては強迫的に脳髄を一閃しようとする。ジョーが雑踏に踏み出した瞬間、人と車の織りなす喧噪がインダストリアルノイズの圧力と切っ先でスコールのように降りそそぎ、ジョーの耳には世界の音がこんな風に聴こえているのだろうかと、『クリーン、シェーヴン』の滴るようなノイズサウンドを想い出したりもした。今にして思えば『シクロ』で決定的に鳴っていたのはトム・ヨークの歌声というよりもジョニー・グリーンウッドの不意打ちで殴りかかるギターのアタックだったわけで、彼の創り出す音が映画に愛されるのは既に必然だったということなのだろう。自分が土手っ腹に風穴をあけた相手の隣に横たわり星条旗のウェットワークをメランコリーで共有しつつ「愛はかげろうのように」をレクイエム代わりにその死を看取るジョーは、既に崖の下の司祭のごときであった。
posted by orr_dg at 19:42 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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