2018年06月10日

海を駆ける/シーバウンド・エクスカーション

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オフィシャルサイト

突然現れた正体不明の闖入者が日常に投じた波紋がやがて巨大な渦を巻き起こして日常の意味そのものを変えていくといった定型にのっとってはいるものの、たとえば『南東からきた男』のように闖入者の正体がこの世ならざる者であるかどうかという境界をうかがうサスペンスを担保しつつ、そこからいかに遠ざかってみせることが可能かというアクロバットそれ自体を試みる映画であった。ラウ(ディーン・フジオカ)という男(そもそも男と特定していいのかということもある)の行動を人間の論理で語らずに語ること、しかしその尺度を人間の論理とした時点で常に人間の論理が強烈に意識されてしまうという矛盾を、ならばそれをそのまま描いてしまえばいいのではなかろうかという野心が、ホラーでもSFでもない明るさと昏さ、希望と禍々しさの同居する、しかし死の在りかだけはしたたかに提示し続ける奇譚として最期には小さなあぶくを悪戯めいて破裂させてみせさえもする。劇中でラウは直接的もしくは間接的な描写として6人の命を奪い、2人の病気を治癒する。もちろんそこに人間的な善と悪の認識はあるはずもなく、もしもラウの姿が透明であったならそれらの死は事故や病気、大往生といった運命の所作として呑み込まれたにすぎないわけで、人智を越えた存在に触れた時、果たして人は絶望するのか解放されるのか、それがなぜか青春のバカヤロー!とクロスして語られる不可思議なヴィヴィッドは、しかしそれも裏を返せばメメント・モリの影であったかもしれないわけで、『淵に立つ』のラストを染めた“人間などはなから考慮されない道理のひと触れ”そのものを監督は描こうとしたのだろうかと、海へと消えていくラウのブラックホールのような笑顔を見せられてようやく思いが至ったのである。相変わらず芹澤明子氏のカメラは怜悧で透明で禍々しく、フィクスになるたび四隅や空白を目で追っては凶兆を探す黒沢清のモードへと強制的に切りかわってしまうのだった。左にサチコ(阿部純子)の佇む崖上のトーチカ、右にはタカシ(太賀)の泳ぐ海を配置したショットの拮抗した調和ゆえ、何かが何かを思いあぐねているかのようなショットに首筋はちりちりと胸はざわざわと慄えたのを自覚した。
posted by orr_dg at 02:29 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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