2018年05月30日

ファントム・スレッド/いいと言うまで動かずに

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約束の場所にレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が乗りつけたブリストル405のドアを自分で開けて乗り込んでしまいそうになった一瞬、アルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)はハッと手を引いてレイノルズが開けてくれるのを待つことになる。この瞬間、オートクチュールという美の儀式を亡き母に捧げ続ける妄執のモンスターたるレイノルズの手中に、海辺の小さな町で暮らすおぼこいアルマが新たな生け贄として堕ちたと思わされたワタシ達とレイノルズは、アルマの目を逸らすことをしない笑顔にひそむ愛とは常に共同正犯であるという確信と野心の刃など知る由もなかったのである。レイノルズがアルマを最初に連れ出した夜のレストランでおかまいなしに食い気をほとばしらせるアルマをレイノルズは優しく黙殺する。初めて自室にアルマを呼び入れた次の日の朝、朝食の席でアルマのノイズをレイノルズは叱責する。レイノルズが倒れる日の朝食で、アルマはノイズを出すことなく静寂をコントロールしてみせている。ハネムーンの旅先での朝食、何らはばかることなくノイズを出すアルマをレイノルズは苛立ちを押し隠しながら黙殺する。こうして都合4回あるレイノルズとアルマの食事のシーンを追ってみると、ただ一度ノイズを出さなかったのは彼女の仕立てた策略の内であったことを思いだしてみれば、最初から「むしろ面倒を歓迎するわ」と言い放ちノイズを出し続けるアルマは「わたしはいつだってここにいる」と自らを揺るぎなく変えないことによって状況を逆転していったわけで、してみると自分を誘うだろうことを見透かしてあらかじめメモをしたためていたアルマに声をかけた時点でレイノルズは彼女の軍門に下ってたということになるし、食いしん坊さん!とレイノルズを子供扱いしたようなメモの走り書きはやがて2人が獲得する異形の関係が既にここから始まっていたことを告げてもいる。確かにアルマがレイノルズにしたことは道義的あるいは倫理的に道を外れるかもしれないけれど、アルマはレイノルズと一つ屋根に暮らすうちに彼が奥底にくゆらせるオブセッションの源泉を見抜いていたのかもしれず、ハウス・オブ・ウッドコックにおいては異物であるはずのアルマがシリル(レスリー・マンヴィル)にとって排斥の対象とならずにいることや母親の幽霊ですらがアルマとの代替わりを促すかのように消えていく様子からするに、アルマがレイノルズを救うだろうことを女性達は深層で知っていたようにも思うわけで、レイノルズが新たに呪いを更新する必要があったとするならばアルマこそがその守護天使であったということになり、キノコを料理するアルマの姿を押し黙って凝視するレイノルズが、のたうち回りながら女性たちに仕えていくことが自身の宿命であることを確信として悟りつつ「倒れる前にキスしてくれ」という酷く美しい言葉でそれを受け入れる覚悟を示すクライマックスの愛の形は前人未踏であるだけに怖ろしくはあるものの、そこに踏み出していく2人の昂揚を確かに光が照らしたようにも思えたのだ。たとえそれが地獄の業火の照り返しだったとしても、問わず語りにその愛の彼岸を夢想するアルマはむしろそれを望んでいるようですらあるのは言うまでもない。では果たしてレイノルズのクリエイティヴィティは彼方への片道切符として差し出されたままなのか、この一連がやがてくる享楽のスインギング・ロンドンに向けてレイノルズが忌まわしきシックを超えていくための通過儀礼であるならば、清冽で硬質な屈託をヒールの音に重ねて歩くシリルの揺るがぬ眼差しがそれを受け入れたようにも思えたわけで、それは完璧主義者の人体実験としてもひどくロマンチックであることに変わりはない。ヘンリエッタがハウスを離れたのは、彼女に仕立てたドレスをショーでアルマが完璧に着こなしたことを知ったからではなかったのか。ヘンリエッタとてバーバラと同じ穴の狢なのだろう。レイノルズの駆るブリストル405のリアからルーフ越しの疾走ショットはまるで御者台から馬を捉えたかのような荒ぶるむき出しであった。アスパラガスの夜が明けてキノコの朝を迎える瞬間のまるで水の中で爆発音を聴いたように圧縮された不穏のサウンドデザインに、ため息のような鳥肌が立つ。完璧な平凡が完璧な非凡を喰いつくす倒錯はポール・トーマス・アンダーソンの自罰と自虐の白日夢でもあるのだろうか。より騒がしく水を注ごうとアルマが高く掲げた水差しが電灯の傘を揺らした瞬間、新たな世界の法則が回復されるのを見た。
posted by orr_dg at 02:54 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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