2018年05月23日

モリーズ・ゲーム/私の名前で私を呼んで

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オフィシャルサイト

感謝の言葉を告げるモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)に「娘のステラなんだ、きみを弁護するようにと頼んだのは」と返す弁護士チャーリー・ジャフィー(イドリス・エルバ)は「きみの本を読んだ娘はきみを自分のロールモデルだと思ってる」とさらに付け加える。非常に聡明な子供として描写されるステラがなぜそれほどまでにモリーを全肯定するのか、それはおそらくアメリカ的な家父長制にけつまずいてクラッシュしたモリーが、逆にそれを利用することでその呪縛から脱出した上にマチズモの偽者やフェミニズム的な中指としてではなく、明晰な頭脳が導き出した街場の論理によってしなやかに労働倫理を実践しようとしたその企みの清冽な直截性が、人種であるとか厳格な父であるとかいった十代の彼女にとってのガラスの天井の向こうに透けて見えたからなのだろう。したがってモリーはこれまでアーロン・ソーキンが描いてきた、あらかじめ悪魔と契約して、そしてそれを誰にも知らされないまま生まれてきた人間とは異なるからこそ、彼女の債務はそこに発生しているわけではないし、父との和解や弁護士にすがることが彼女の独立性を脅かすこともないのである。そうしてみるとジェシカ・チャステインが今まで演じてきた様々なキャラクターは、「女性」の苦しみや悩み、絶望とされがちな感情や運命を付帯事項のない「人間」のそれへと書き換えていく存在でもあったことに気づかされるわけで、悪魔と天才の両義性を手放すことが映画のケレンを弱めることを承知の上で、モリーというひとりの人間がその喪失と再生をいかに可能にしたのかを衒いなく正攻法で描くことを自身の初監督作に課したアーロン・ソーキンの誠実というか馬鹿正直が思いがけず心に沁みてきたし、それは言わば、悪魔と契約した人々のギャンブル中毒を癒やす阿片窟を運営するモリーの、その一方で彼らの正面から目をのぞき込む思いやりや共感に通じるようにも思えたのだった。トニー・ギルロイにも感じたのだけれど、透徹した感情を抽出してきた脚本家ほどその監督作では情動の湿気が増すように思うわけで、それまで叙事に殺され続けてきた己が叙情の復讐なのかどうなのか、スケートリンクから父(ケヴィン・コスナー)の告白に至るあたりの、息を切らしたまま見つめ合う視線のらしからぬ性急さに驚いてみれば、そんな勘ぐりにもどこかしらうなずけてしまう気がするのである。かつてここまで正面切ってジェシカ・チャステインをくどいた男がいただろうかというクリス・オダウドの泣き濡れるクズもまた、アーロン・ソーキンがほくそ笑んだように思えた。
posted by orr_dg at 18:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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