2018年05月19日

孤狼の血/いつかギラギラした日

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オフィシャルサイト

大上(役所広司)と別れた夜にやさぐれた日岡(松坂桃李)が押しかけた時の岡田桃子(阿部純子)が、最初の夜の純白の下着とはうって変わったけばけばしいブラジャーをしていたのはなぜなのか、それはラスト付近で彼女が日岡に告白することの物言わぬヒントだったのだけれど、そんな風にしてこの映画は端正かつ律儀に爆裂しようとするわけで、署を出る日岡が突然の雨に空を見上げるシーンを丁寧に(ご丁寧にも、と言ってしまいたくなる)ハイアングルでとらえるショットといい、特に日岡まわりは丹念に抜かりのないように描かれていて、「荒磯に波」から始まる冒頭の数分でこの映画が腹に一物あることを宣言した後からすると、それは意外と言ってもいい身のこなしにも思えたのである。そんな風にしてエクスリーとダドリー、あるいはジェイクとアロンゾといったひりついた拳の相克をかわしては善悪の彼岸を這いずり回るビルドゥングスロマンへと舵を切るこれはあくまでも警察映画であって、『県警対組織暴力』に色目を使うにはヤクザが暴力装置としての分をわきまえ過ぎている気がしたし、日本人が鼻でもかむように映画を観ていた時代にさんざめいたプログラムピクチャーのやり逃げが刹那のスピードとマッチしたヤクザ映画はすでに彼方にあることをあらためて念押しされた気もしたのだった。やり逃げの意味も知らぬ客を待つためにそのスピードを殺してみせた『アウトレイジ』が賢明な亜種だったことは言うまでもなく、そうしてみるとアクセルを踏み込んだままギリギリでカーヴを曲がり切ろうとした白石監督のハンドリングとアクセルワークにはいちいち感嘆するしかないし、藤原カクセイ氏の死体仕事を含め人間のボディに関わることはとことん見せようとするサービス精神も含め、今できるすべての手を打ち尽くしたメランコリーの気分までもが充満するスクリーンに終映後ワタシは小さく一礼したのも確かなのである。とはいえ、反体制とか対権力とかいった青春の麻疹が若い衆の嗜みから失われた昨今、ピカレスクへのロマンがなかなか抱かれづらいのだろうことも実感しているわけで、「ヤクザが出ている映画」と「ヤクザ映画」の断絶はもう言っても詮無いことなのだろうことも、この映画を観たことによる最終的な確信だった気がしてしまうのだ。それらはおそらく、何かを足蹴にして垂直を登攀する征服の時代の徒花でもあって、最早後戻りすることはない水平性が誘うステイタス・クオーの再発見がそれを積極的に受け入れるはずもなく、その曖昧で茫洋とした横断を松坂桃李は実に的確に演じていて、それはすなわち更新されたその先がないことの最後通牒だったようにも思うわけで、その製作陣の真摯さゆえに図らずも「ヤクザ映画」の最期を看取る機会を得てしまった気分の複雑さがワタシの正直なところ。そんなつもりで観に行ったんじゃないのに。
posted by orr_dg at 03:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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