2018年05月16日

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法/虹のふもとでつかまえて

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オフィシャルサイト

キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビー(ウィレム・デフォー)である。遊びに夢中になった子どもたちが崖から落ちてしまわないようにつかまえる、ライ麦畑でたったひとりの大人である。ならば崖の近くで遊んじゃだめだと言ってしまえばいいのに、崖の近くでしか遊ぶことを許されていないことを知っているボビーは、笑わない目をして笑いながら子どもたちに目を配っている。もちろん子どもたちにはいろいろな子どもが混じっているわけで、最大限の譲歩としてボビーはヘイリー(ブリア・ヴィネイト)もできるだけキャッチすることに決めていて、ではなぜ崖の縁に柵を作らないのかといえば、それがアメリカという国の流儀なのだというジレンマをボビーに体現させてもいる。そうやって、ここまではいいがここからはだめだ、という「ここ」のせめぎ合いこそが現実に他ならないという、この映画ではそれが呪いのように終始絶えることがないわけで、ボビーが子どもたちに対しては「ここ」のくぐり抜けを大目に見ているのは、アメリカの罪深さになりかわった贖罪の気持ちでもあるのだろう。くわえてボビーは、ヘイリーがマジック・キャッスルの部屋で売春をしていることを知っているにも関わらずそのくぐり抜けすらも大目に見ていて、もちろん管理人としての家賃欲しさなどでは毛頭なく、それもまた崖の近くでしか生きられない人たちへの苛むような共感であったのは言うまでもないにしろ、そのことが招き寄せた結末にしたところでおそらくはボビーにとって最初の悲劇というわけでもないのだろう。しかしどれだけ絶望や諦念が深まろうと、キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビーはまた同じように大目に見てしまうしかないわけで、夕暮れにひとり煙草を吹かすボビーの寂寥に、ウィレム・デフォーという崖の近くを飄々と歩いてきた男がそれを演じることによって「ボビーというアメリカ」の内部に結晶化された幾重もの虚無が透けたようにも思えたし、「大人が泣くときはわかるんだ」などと6歳のニヒルをかざしたムーニー(ブリックリン・キンバリー・プライス)はそれを見透かしていたからこそ、だけど自分が泣くときのことなんかわかるはずがないよ、と決壊した瞬間に駆けつける先がボビーあるはずもなく、大人は判ってくれない、と確信した彼女が同志と選んだジョンシー(ヴァレリア・コット)と2人で崖から飛び出し夢の国へと駆けていくそのうしろ姿の、いったい2人は泣いているのか笑っているのか希望と絶望が手を取り合って絶唱するラストは『明日に向って撃て!』のブッチ&サンダンスにも重なって見えたのだ。書き割りの街でやり逃げの気配を浴びて生きていく子どもたちの、まるでZ級映画の血糊のように色付けされたジャムを、これって今まで食べた中で一番美味しいジャム!とうっとりする笑顔はそのままに、でもいったいどこへ連れ出すことができるのかわからないワタシたちはボビーのようにキャッチャーでいることを課し続けるしかないのだろうけれど、でもあんたが思ってるよりもけっこうキツイぜ、とその途方にくれた笑みに刻まれた皺が語りかけてきて、ワタシはさらに途方に暮れるしかなかったのだ。ヘイリーは最後までムーニーのキャッチャーであろうとあがき続けたし、ヘイリーに殴りつけられ無惨に腫らした顔でムーニーを抱きしめるアシュレー(メラ・マーダー)も、それがどんな場所であろうと生きることの尊厳と品性を手放さないジョンシーのおばあちゃんも、それぞれがキャッチャーであろうと必死であったにちがいないのだ。せめてあそこへと駆けていく2人が笑っていてくれたらと思ってやまない。
posted by orr_dg at 14:44 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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