2018年05月08日

君の名前で僕を呼んで/恐怖を笑い欲望に震えろ

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ロータスの果実にかぶりつく若き神々がまどろむ夏の午後、とでもいう滴る感情をぬぐうこともしない理性の甘噛みには彼岸の香りすらがしたのだけれど、すべてをだしぬいて自転車をこいでは笑顔で走りぬけていくスピードの浮世離れはいつしか死の気配すらも振り切って、無知や誤謬を生け贄としない青春の滑らかで正しく美しい動きをただひたすら追う恍惚だけをとらえ続けるルカ・グァダニーノの幻視は、ある映画における「純粋で、途方もなく、モラルに外れた、そういう欲望こそが僕たちを生かしてやまないのだから」というポール・ダノのセリフの新たな実践にも思えたのである。しかしそれは、終盤で父(マイケル・スタールバーグ)が息子エリオ(ティモシー・シャラメ)に、夢を見続けるためには夢の理由を知っておいた方がいい、と語りかける父殺しをしない通過儀礼の静謐と豊饒を拡げるのに必要な時間だったことが明かされると同時に、オリヴァー(アーミー・ハマー)が自身の疎外された生を(「君の家ではぼくは義理の息子のような気分だったんだ。うちの父親だったらぼくは刑務所=correctional facility行きだよ」)エリオに明かすことによって、あの夏はむしろオリヴァーにこそかけがえのない時間であったことが告げられるわけで、エリオの涙はオリヴァーという想い出を失う哀しみに加え、エリオにとって自由の眩しい道筋にも思えた彼がずっと殺してきた内部の奥と、これからもそれを殺していかなければならない世界の悲嘆に感応したエリオ自身の奥から湧き出していたように思うのである。夏の日差しから一転したイタリアの冬景色とエリオを塗りつぶすメランコリーは、やがて聞こえてくるエイズの足音と、彼らが否応なく巻き込まれていく社会と政治に吹き荒れる嵐の予兆だったのかもしれない。この映画が『おもいでの夏』タイプの定型ににおさまらないのは、エリオにとってのオリヴァーと同じくらいオリヴァーにとってもエリオでなければならなかったその伸ばした手の切実さがそうさせるわけで、何度となく水辺で体を慣らした2人の、その6割は水分でできているとされる肉体が互いを浸透圧のように移動して均質になっていくその感覚と確信を、オリヴァーは”Call Me By Your Name”と口にしたのだろうと考える。ある種の解放区を現実的に設定した上でそこにのみ息を継ぐ人を解き放っては、彼女や彼らのブラウン運動のような動きをつかまえていく監督の筆致は前作『胸騒ぎのシチリア』にも連なる部分で、その不可思議なゆらぎには、いったい何が映画を決定するのかという問いかけを無効化する催眠性があって、主人公が境界線上で磔になるラストの香しい手癖も含め、ヴィルヌーヴがステージを上がってしまった今となってはこの悪い夢から醒め続ける夢を見るような中毒性のキックを手放すわけなどないのである。1984年にサイケデリック・ファーズをよみうりホールで観た日は東京で38度を超えた猛暑日だったことをいまだに憶えていたりもするものだから、地下室にくぐもるようなリチャード・バトラーの歌声を真夏の夜のパーティチューンにインサートするグァダニーノに、なにより一方的な共感を覚えてやまないのだった。
posted by orr_dg at 18:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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