2018年05月06日

ザ・スクエア 思いやりの聖域/芸術はサービスだ!

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オフィシャルサイト

「それはだね、きみのバッグが美術館に展示してあったらそれは果たしてアートかどうか、ということだよ」というとっさの苦し紛れにも思えたクリスティアン(クレス・バング)の答えが、言うまでもなくそれはデュシャンの「泉」に由来するアートという行為の脱構築論であるけれど、結果として日常と非日常、虚構と現実、本音と建前、といった二重性をトートロジーで弄ぶスノッブの本質を自ら宣言していたことに気づかされていくのである。すべては現実を解題するコンセプトとして相対化する大喜利に過ぎず、後出しジャンケンの関係性の中でしか生きられない者の滑稽と悲哀を揶揄するというよりは救済するかのような慈しみと共に描くことで、笑い飛ばすつもりでいたこちらの居心地を次第に奪っていくその手つきは前作『フレンチアルプスで起きたこと』からいっそう露悪を増していて申し分ない。トゥレット障害の観客によるトークショーの蹂躙、クリスティアンとアン(エリザベス・モス)が繰り広げる言ったら負けのマウンティング、オレグ(テリー・ノタリー)による相対性晩餐会の破壊、そして黒髪の少年によるクリスティアンのあくなき糾弾、といったシーンにおける映画の叙述としてはバランスを失しかねない切り上げの悪さは明らかに観客を蝕むためのやり口で(そりゃあ151分にもなる)、そうやってクリスティアンに誘い出されたあなたたちは自分が今どこにいるか気がついているのかな?と言いながら、ワタシたちの苛立ちや蔑み、咎め立てをニヤニヤと笑いながら監督は集めて回っていたのではなかろうか。劇中では展示された正方形の中に足を踏み入れた観客の描写はないのだけれど、クリスティアンの娘が出場するチアリーディングの大会で、四角く囲われた競技エリアの中でチームが発揮する協調と信頼は、いまだ相対化の怪物と化していない子供であればこそ可能な精神の発揮であることを告げているかのようだし、別居した妻との間の2人の娘がクリスティアンの生活に登場して以降、クリスティアンの墜落をぎりぎりで押し留めていたのは子どもたち(2人の娘と黒髪の少年)であったようにも思うのだ。嘘をついてはいけません、お友達をいじめてはいけません、困っている人を助けなくてはいけません、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません、と散々偉そうな口調で子供に諭してきたにも関わらず片っぱしからそれを反故にしている大人を叱るにはどうすればいいのか、つまりはこの映画はそういうつもりで耳に痛くて煩わしい言葉を執拗に散布し続けるわけで、そうしてみるとあちこちで子供が事態を撹乱しては「カオス」を呼ぶハネケの意図があらためてクリアになった気もするのである。もちろんリューベン・オストルンド監督がハネケへの傾倒と崇拝を公言しているのは言うまでもない。
posted by orr_dg at 23:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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