2018年04月29日

タクシー運転手 約束は海を越えて/走っても走っても

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オフィシャルサイト

この世界で何より大切な一人娘との約束はおろか、自分が生きて娘のもとに帰ることすら危い状況に首まで浸かったキム・マンソプ(ソン・ガンホ)が自己犠牲の天秤を一人娘と光州の人々との間に掛ける苦渋は、それが活動家としての思想やジャーナリストの使命感という大義に裏打ちされない分だけ残酷なまでに現実的で下世話な判断をつきつけて、つい数時間前で疑いもしなかった世界が自分と自分のような人たちを躊躇なく殺す殺人鬼に変貌したその姿への、理解が現実に追いつかない混乱と衝撃を卑近にたぐり寄せては何とか呼吸だけを続けてきた彼がついに天秤を逆転させる瞬間は、カタルシスというよりは悲痛と哀切の幕が正式に切って落とされたにすぎないわけで、フィクショナルなアクション映画からはすくなくとも30分は遅い彼の変わり身はそれゆえ深刻でやるせなく、それまでの卑屈な愛想笑いと強がりが一気に反転していく取り返しのつかなさが、じゃあいったいお前ならどうする?と胸ぐらをつかんで泣きながら詰め寄ってきたのだった。そしてそれを知識や思想ではなく、血と泥にまみれたスニーカーと娘の土産に買ったピンクの靴、差し入れのおにぎりと遁走の道すがらのおにぎり、といった手ざわりの変奏によって更新する手続きは最後にマンソプがリボンを結ぶシーンの円環によって完了されるわけで、それは光州の人々がなぜああして自らを顧みず立ち上がったのか、そのたどたどしくも身を切るような代弁でもあったように思うのである。しかし、そうやってマンソプの重力が効けば効くほど、記者ピーター(トーマス・クレッチマン)のそれが拮抗し得ていないことに気づかされてしまうわけで、ピーターの動機がいったいどのように変遷していったのか、冒頭の日本パートからすると倦んだ屈託を燃やす機会を狙ったように映るピーターが一線を越える覚悟と葛藤をどう自分に課したのか一人称的な視点で叙述されることがないため、もちろんそこには言葉の壁があるにしろ、最後まで記号の枠をはみ出すことがなかったように映ってしまうのである。それと気になっているのが、最後の検問でトランクをあらためる兵士がソウルナンバーのプレートに気づきながら知らぬふりをするシーンで、他の兵士とはいささか異なる文民の風情を彼に漂わせた点で軍の非道に対するカウンターとしての役割を与えたのは明白であるにしろ、となればマンソプやピーターの生存のみならず光州の真実を伝える決定的な役割を果たしたのはこの名もなき兵士だったという「都合の良さ」がどうにも引っ掛かってしまうのである。これがピーターのモデルとなったユルゲン・ヒンツペーターの証言をもとにした事実であるならば、すべての成否がこの兵士にかかっていたという点で全体のバランスが少々危うくなる気もするわけで、この行動が兵士自身の破滅を招いたであろうことを想像してみれば、なぜ彼はああした行動に出たのかというサイドストーリーが物足りなく思えてしまうし、この後に続くカーチェイスのための完全なフィクションだったとすればその手続きはいささか雑に過ぎたと言われても仕方がないように思うわけで、やはり実話ベースであった『アルゴ』での家政婦サハルを物語の要請として使い捨てる扱いなど思い出したりもした。光州の人々が軍の銃弾に斃れていくシーンのスローモーションは、無慈悲に散らされていく生命があげる最後の叫びとでもいう詩情に溢れて一瞬ペキンパーのスローがよぎったし、理不尽な世界に蹂躙され翻弄される小市民マンソプを演じたソン・ガンホには、やはり運転手を演じた『世界大戦争』のフランキー堺が重なって想い出されたりもした。
posted by orr_dg at 18:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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