2018年03月27日

LUCKY ラッキー/モンタナ行き最終急行

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オフィシャルサイト

殺されてしまったり放っておかれたり、ただそこにいるだけだったりずっと疲れたままだったり、まったくラッキーとはいいがたい役柄をそれが当たり前であるかのような顔で風に吹かれるように演じてきたハリー・ディーン・スタントンだからといって、これは人生の上がりを目前にした男の飄々としたラッキーで転がっていく姿をそのフィルモグラフィと反語的に描いて座りのいい締めくくりとするような、あてがいぶちのタイトルロールなどではまったくない。それどころか、演じてきた役柄の男たちのセリフにすらならない内心の投影であるかのような、そっちの勝手で始めておいて終わらせるのもそっちの勝手かよ、と取り付く島も寄る辺もない人生にニヒルを覚えつつ、すべてを取り上げられたあとで一つだけできることがあるとすれば、それは自分の全存在を肯定して微笑んでみせることだよ、と今となってはまるで墓碑銘のように刻まれるハリー・ディーン・スタントンという在り方そのものがフィルムに焼き付けられていたのだ。場当たり的な気まぐれとは程遠い静かで淡々としたルーティーンによってラッキーの生活が営まれていることを伝えるオープニングから始まって、変わり映えのしない、というよりはさせないその日々の築き方は世界の虚無に対するラッキーなりの抵抗でもあったのだろう。しかし、ある日突然訪れた最大にして最強の虚無である「死」のサインに戦術の変更を余儀なくされたことで、ルーティーンが隠していた負けるが勝ちとでもいう新しい光景にラッキーの内部は更新されていくことになる。いつしか澱のようにたまっていた執着を捨てることの理解と確信を代弁するハワード(デヴィッド・リンチ)と彼の愛するリクガメのエピソードはビザールな味わいと慈しみにあふれたシナリオの忘れがたいピークの一つでもあるし、それを聞かされることでラッキーが自身の舵を切る契機となる太平洋戦争時の沖縄の少女のエピソードはハリー・ディーン・スタントンの当地への海軍従軍経験を織り込んでいることは言うまでもなく、そんな風にして観客がラッキーに役者本人を投影することを拒まない虚実の行き来にいつしかワタシはハリー・ディーン・スタントンその人と会話をしているような親密さの虜となって、もしも今ラッキーにタバコを勧められたら25年を超える禁煙をきっと解いてしまうだろうなと要らぬ心配をしていたのだった。誰かを演じるために存在する俳優が最期には自分自身を演じることの皮肉ではなく奇跡。その奇跡というのは、彼が選んだ自身の断面と色合いがワタシたち観客が長いことずっと彼に託してきたそれと寸分違わなかったことであり、それは彼がたどりついたすべての肯定がワタシにも許されたような気もしたものだから、なんだか感極まって笑うしかすることがなかったのである。撮れば撮るほどハリー・ディーン・スタントンがハリー・ディーン・スタントンになっていくのだから、ジョン・キャロル・リンチも撮っている間ずっとそんな風に笑っていたに違いないし、ほとんどすべてのシークエンスにハリー・ディーン・スタントンがいるにも関わらず、一人の人間の道行きがパーソナルというよりはスペクタクルの足取りと広がりに映るのはそうやって監督も一緒に解放され続けていたからなのだろう。そしてラッキーが「Volver Volver」をひとり静かに歌い出した瞬間から約2分半のあいだ、演じるということへの問いかけに対するハリー・ディーン・スタントンからの秘めやかで揺るぎない答えをワタシたちは目の当たりにすることになる。傑作。
posted by orr_dg at 15:54 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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