2017年04月15日

ストロングマン/頭の上の蠅の王

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最近のギリシャ映画はというかヨルゴス・ランティモス監督の界隈による「人間で遊ぼう」系のすっとぼけた探求は他の追随を許さない感じで、ハネケのように「人間(が壊れるま)で遊ぼう」と追い込みをかけない点で好事家の好みは別れるかもしれないけれど、破壊も選択肢に入れつつあえてそちらを選ばない精神の輝度と硬度は、現在のギリシャという国の状況を照らす回答としての光でもあるのだろう。したがって、クルーザーの中で暇つぶしのマウント合戦に興じる男たちにも最後まで罰らしい罰が下されることはないのだけれど、家族なり恋人なり仕事相手なりの社会的な視線から身を隠した中でめざす名誉の人(原題” CHEVALIER”)を男たちは各々がどのように定義したのか、小さくいじらしい生き物としての男たちの微に入り細をうがつ見透かし方に、悪意というよりは呆れ半分の赦しを得た気分だったのである。冒頭、一見したところ精悍に映るウェットスーツを脱いだその下から現れる白くたるんだ肉体を晒すことで、監督はあらかじめ彼らの対外的な尊厳(=マチズモ)を剥奪してしまっていて、その後で繰り広げられる目くそ鼻くそのつばぜり合いにしたところで掃除であるとか生活のマナーと言ったマチズモの発揮とはほど遠いふるまいを要求しているのだけれど、コンテストも押し詰まった終盤である人物が提案したマチズモの権化のような儀式に周囲が腰を引く中、ただ一人賛同したのがマチズモとは最もほど遠いところにいると思われた男だったことで、実はそうした男ほどマチズモへの憧憬に溢れているというペーソスまで滲ませて、救いがたさへの寛大さと容赦のなさを掌中で転がす澱みのなさに感じた心地よさは被虐の快感でもあったのか。しかし、ラストで陸に上がった男たちがノーサイドの笛で夢から醒めたかのように三々五々散っていく中、何の変哲もなかったはずの指輪が勝者の指におさまることで何かしらの意志を光らせたようにも見えるショットに、こんな益体のない争いであっても敗者の屈託が新たな悪魔(=エゴ)を召喚して勝者に憑依させてしまうことの厄介と薄気味悪さを告げていて、その瞬間だけは真顔のホラーに思えたのである。彼ひとりだけが変質して家に帰るのだ。
posted by orr_dg at 23:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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