2017年04月09日

ジャッキー/あれは鳥の音かしら

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オフィシャルサイト

途方にくれた悪魔のため息のようなミカ・レヴィのストリングスに導かれ、幽鬼と化したジャッキー(ナタリー・ポートマン)が黄泉の国を彷徨うがごときオープニングの異様が、これは伝記ではない、陳腐な言葉遊びと笑ってもかまわないがむしろ伝奇であると告げていて、1963年11月22日午後12時30分に粉砕された夫の頭蓋骨と脳漿を半狂乱でかき集めた彼女のおおよそもおそらくはその時一緒にボンネットに飛び散ってしまったこと、そうやって昏睡した空蝉と化した彼女がなお動き続ける自律運動が奥底からの電気信号によっているのだとしたら、その時間に存在したジャッキーこそすべてのノイズが取り払われたオリジンだったに違いなく、ジャーナリスト(ビリー・クラダップ)を前に彼女が行ったのは、そうやって離脱したオリジンを自身に憑依させて語る口寄せだったようにも思うのである。したがって、自身が何を口にしたのか知る術のない彼女が彼のメモをチェックする、というよりは何が書いてあるか知ろうとするのは至極当然だろう。既に破綻した結婚生活を背負いつつファーストレディの座に幽閉された彼女にとって、ホワイトハウスを神殿とする神話を紡ぐことが正気のよりどころであったことを忘れなければ、「俺たちはまだ何もやっちゃいないのに!」と叫ぶボビー(ピーター・サースガード)の言葉を借りるまでもなく、幽鬼のジャッキーを駆り立てるのがアメリカの父となる前に退場を余儀なくされたジャック(キャスパー・フィリップソン)を父殺しの神話に祀る儀式への妄執であることは言うまでもないのだけれど、ワタシ達はその完遂が彼女自身をもアメリカの寡婦として神話の中に捕らえてしまうことを知っているからこそ、彼女が神父(ジョン・ハート)に告げた死の願望をそこに嗅ぎ取ってしまうのだろうし、ひいてはその連鎖がボビーをも連れ出したのだろうことまで幻視してしまうのである。そんな風にアメリカ稀代のアイコンを描くに際しここまで全編に渡って死を通奏低音としたのは、アウトサイダーであるパブロ・ラライン監督にしてみれば、この事件にアメリカ建国以来の性癖である死と理想の相姦を見てとった上で、この国では常に理想と刺し違えるのが愛ではなく死であることを確信すればこそ当然のことだったからなのだろうし、それはダーレン・アロノフスキーがアメリカを視てきた視線そのものとも言えるのではなかろうか。完璧にコスプレしたナタリー・ポートマンはいつにも増して寸足らずではあるのだけれど、例えばナンシー・タッカーマン役に長身のグレタ・ガーウィグをあてるなどしてそれを異形とすることで異化を深々とすることに成功していたし、『ブラック・スワン』での彼女についてはあの映画に居合わせたハプニングとアクシデントの気配をいまだにぬぐえないでいるのだけれど、ここでの彼女は両の手を血に染めて削りだしたゴーレムを自らとして、偽の命を吹き込んではそれを泥の芝生で引きずり回すように操って見せて、ワタシにとってこれが彼女のキャリアハイとなったのは間違いないように思う。いささか酩酊気味に観ていたせいで、薬指から指輪を外したジャッキーがそれを呑み込んだようにみえてしまったのだけれど、この映画においてはむしろそれでもいいとすら思ってしまっている。
posted by orr_dg at 02:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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