2017年04月03日

ムーンライト/月まで泳ごう

Moonlight_01.jpg
オフィシャルサイト

オープニング、インパラから降り立って通りを見渡すフアン(マハーシャラ・アリ)を追いかけるようにカメラもあたりをぐるりと見渡しては、そこに映ったものがこの映画で語られる「世界」のすべてであることの閉塞と絶望と困難をまずは告げてみせる。そしてこれもまた、あらゆるワタシたちにあったはずの『6才のボクが、大人になるまで。』ではあるのだけれど、メイソンのそれが内なる自分を敵と闘う思春の戦場を生き残るビルドゥングスロマンとして祝福のうちに語られたのに対し、シャロンにとって敵はいま自分をつつむ世界そのものに他ならず、したがってそこを生き抜くために綴られるのは、寄る辺のない必然としてピカレスクロマンにならざるを得ないのだろう。だからこそシャロンが手に入れたパンプアップした肉体やゴージャスでうるさい車のどこにもアメリカンドリームの勝ち誇ったマチズモなどあるはずもなく、それは鎧を身につけ砦にこもる生き残りの術でしかないわけで、その中にうずくまるのはかつて放課後のいじめから廃墟に逃げ込んだままのシャロンにほかならない。そもそも自分がいったい何者に変わることができるのか、希望や未来の手ざわりを知らずに育ったシャロンが可能性を人生の尺度とすることなどはかない夢に過ぎず、唯一できることと言えば父の幻想を自分に許したフアンをトレースすることだったのだろうし、ダッシュボードの王冠はフアンの遺志をストリートで受け継いだことの控え目な象徴でもあるのだろう。そして自分のセクシュアリティに関しても折り合いをつけたというよりはやはり鎧の奥に閉じ込めて鍵をかけ、亡いものと殺してしまっていたのだろう。だからこそケヴィンからの電話によって亡霊を視たかのように狼狽したのだろうし、蘇った記憶による混乱とオーヴァーロードを寂寥に満ちた夢精によって描いたシーンは、セクシャリティが肉体を司る精神と直結していること、すなわちセクシュアリティもまた揺るがし難いパーソナリティであるがゆえのやるせなさとままならなさを一瞬で焼き付けて少しだけ震えたりもした。テレサ(ジャネール・モネイ)の手料理、ケヴィン(アンドレ・ホーランド)が作ったシェフのおすすめ料理、フアンに抱きかかえられた浅瀬(言うまでもなくあれは洗礼だろう)、初めてケヴィンに触れられた月明かりの浜辺、ポーラ(ナオミ・ハリス)が伸ばしてつかまえた腕、そして再びケヴィンに抱きすくめられる夜、シャロンが世界とつながることができるのはそんな風に誰かの手ざわりを得た時であって、触れることのできる誰か、触れてくれる誰かがいる限り救いは必ずあるのだという、それは言い古され手あかのついた物言いかもしれないけれど、そこに立ち返りそこから始めなければならない人がいることをほんとうに知ってほしいのだと訴えるこの映画がまとう静かで白い光の美しさは、この111分を祈りと捧げるための曙光であったに違いない。
posted by orr_dg at 23:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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