2017年04月01日

パッセンジャー/寝るジェニファーは育つ

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クリス・プラットだからいいようなものの、ジェニファー・ローレンスだからよかったようなものの、とでも言うしかない話自体は言い訳のきかないかなり厭な踏み切りをしてしまうわけで、だったら最初からそんな厭な話にしなければよかったのにと思うくらい、自分で自分の手足を縛り首を絞めてはそこから抜け出そうともがき続けるマッチポンプの鬱屈が宇宙船内を満たしてしまうせいで、茫漠とした宇宙の孤独であるとかいったSFの理由はいつの間にか失われてしまっていたのである。したがってこの映画がスリリングであり続けるのは、いったいいつどんな風に秘密がバレてジェニファー・ローレンスがブチ切れるかというその一点にかかっていたわけで、そうした期待に応えるべく憤怒の表情で打ち下ろしの右ストレートをクリス・プラットの顔面に叩き込む瞬間こそがピークであったのは言うまでもなく、それ以降はいたずらに散らかされた部屋の後片付けを粛々とするようなものであって、散らかした覚えなどあるはずのないローレンス・フィッシュバーンまでがなぜだか駆り出されてはそれを命がけで手伝わされたりするのである。自身の手で可能性をコントロールすべく地球を蹴った2人が蓋然性にひたひた喰われていく悲劇と、それに立ち向かうことで手にした幸福を人間性の証と綴るためにはやはり愛とかいった光ある武器が必要だったのだろうし、ともすればメタファーやら何やらに逃げ込みがちな昨今にあってその一点突破に賭けた試み自体は悪くなかったと思うのである。というのもひととおりを面倒で厭な話にしてしまえば何も苦労することがなかったように思うからで、例えば2人の間に厳然たる階級差をしつらえてやれば(劇中でもあったその設定が生かされなかったのは何とももったいない)『流されて』的な逆転の関係性による愛の形がサスペンスフルであったろうし、あるいは『エリジウム』的な下克上の社会実験が可能だったかもしれない。その場合、ジム・プレストン(クリス・プラット)は代替可能なリペアマンとして宇宙船の意思によって“起こされた”ことになるのが望ましく、オーロラ・レーン(ジェニファー・ローレンス)は宇宙船を擁するコングロマリットの社長令嬢あたりであるのがこれまた望ましい。ただそうなってくると、出会うはずのなかった2人が出会う物語にしては、クリス・プラッットはともかくジェニファー・ローレンスに銀のスプーンをくわえたかごの鳥感が皆無だったわけで、前述した打ち下ろしのストレートなど思い出してみればそもそもクリス・プラッットが主従を逆転する可能性などはなからなかったに違いなく、それはもう散々劇場予告で見せられた、懸命に作品の紹介をするクリス・プラッットに、ああもうまだるっこしいわねとばかりカットインするジェニファー・ローレンスの図に明らかだったわけで、ジェニファー・ローレンスを据えた時点でこの映画はとっくに退路を断っていたということになるのだろう。それにしても医療ポッドである。SF映画は厄介なガジェットを手に入れてしまったものだなあと思うわけで、『プロメテウス』や『エリジウム』をみればわかるように取り扱いには最大の抑制と細心の注意を払わなければならないのは言うまでもないし、行き詰ったシナリオのジョーカーとして安易に切ってしまうとそれまでなけなしで維持してきた作劇のリアリティとサスペンスが霧散してしまうことをもう一度肝に銘じ、一日を医療ポッドに頼ることなく過ごせたかどうかをシナリオライターは日々の矜持とすべきだろう。何だか3秒ルールみたいで品がないんだよあれ。
posted by orr_dg at 00:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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