2017年03月28日

キングコング:髑髏島の巨神/ストレイト・アウタ・1973

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オフィシャルサイト

『猿の惑星』のリブートを観た時に“スリップストリームをメインストリームにブラッシュアップする時、CGの超進化が可能にしたあまりに流麗で隙のない大嘘とそれを取り繕うように仕立てられた相克と実存のドラマが醸す正論のとりつく島のなさ”には正直言って辟易しないこともないとか何とか書いた覚えがあるのだけれど、何よりこの映画はそこを完全にオミットしたのが最大の勝因で、自分に服従を誓う者への絶対的な庇護とそれを脅かす者にとっては災厄とも言える脅威となりうる、まさに神としてのコングを祀るためには人間都合の切った張ったはどうでもいい話だしね、とでもいう清々しいまでの人外本位を貫いた監督の勝利だったように思うのである。では、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・グッドマン、リチャード・ジェンキンス、ジョン・C・ライリー、トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソンといった新旧の手練れたちがなぜ必要だったかと言えば、演技の深淵など見せずともその上澄みにたたえた滋養が可能にする豊潤なハリボテこそを欲したからで、その中に放り込まれたプロダクト・プレイスメントとしてのジン・ティエンがどれだけ木偶に映ったかを考えればその意図が明白なのは言うまでもなく、『ジュラシック・パーク』のメインキャストがジャンル映画らしからぬ演技派を揃えていたことなども思い出すのである。最初のヘリ戦において早々に人喰いとしてのコングを復活させることでPJコングは参照リストにないことを告げた点も話が早いし、これまでのキングコングでお約束となっていたロマンス要素では、女性からの(あくまでも愛情ではなく)同情とコングからの憧憬といういわゆる美女と野獣的な関係性の身勝手な傲慢が、正直に言うとさほどしっくりこなくて居心地が悪かったものだから、何よりそれを不要とバッサリとオミットした監督の慧眼こそをワタシは讃えたいと思う。死んでいく人間が片っ端から犬死になのも、神の国における鼻くそ程度の人間風情を嘲笑うようでたいへん気分が良い。できればパッカード中佐(サミュエル・L・ジャクソン)にはエイハブ船長のファナティックよりもキルゴア中佐の如き真顔の狂気で歩んで欲しかった気もするけれど、そうすると例のアレを言えなくなってしまうがゆえ(言ったかどうかはともかくとして)やむを得なかったのなら、まあ仕方あるまい。80年代生まれの監督にとって、セーフティネットとしてのインターネットなどまだない、世界に切り込むならおのれの頭と身体でそれを可能にするしかないロウパワーに溢れた無骨で歪な70年代がノスタルジーではなくルネサンスとして映るからこそ批評というよりは衒いのない同化に焦がれたのだろうし、この映画の痛快と屈託のなさはそうやって監督が手にした解放感がもたらしているのは間違いがないところで、喪失と再生を吸飲したペシミズムのオーヴァードーズにつかまることなく振り切ったその爽快な逃げ足こそがやはり新しかったのではなかろうか。ブロンドの色香に惑ってはビルから墜ち続けるコングではなく、チェーン&スクリューを手にして、お!これ使えるんじゃねえか?とテンションが上がったりとか、あんまりめんどうかけんじゃねえぞ、まあいいけどさ、みたいにぶつくさ言いながら帰っていく後ろ姿とか、そういう自由で独立したコングが観たかったんだよ。
posted by orr_dg at 18:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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