2017年03月19日

アメリカン・スリープオーバー/きっと死ぬまで夏なんだ

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オフィシャルサイト

いつもの夏の夜を素知らぬ顔でやり過ごそうと、まるでシェルターに避難でもするかのように、寝袋を抱えた彼や彼女らが逢魔が刻をすぎた通りを三々五々集まってくる。その顔に浮かぶのは、昼に気づいた胸騒ぎの答えが夜になれば見つかるとでもいう作り笑いのような楽観で、自分たちにはそれが許されるはずだというただそれだけを裏づけに夜を従えている。しかし、開催される4つのスリープオーバーのそれぞれに一人づつ、自分を夏の夜に委ねてしまうことの焦りや怖れ、楽観のツケに関する気配といったいびつな塊がポケットに入りきらなくなった彼や彼女が不穏分子となり、しかし、夏が過ぎ夜が終わった後でいったい自分はどこにいるのか知る由もない苛立ちを背負ったまま夜の街路をほっつき歩き、あるいは走り出し、車を走らせ、踊りだしたその後で、オプティミズムのおぼつかなさと釣り合う塊の正体がペシミズムであることを知るのである。それについては片岡義男が“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と完璧に解題していて、マギー(クレア・スロマ)がスティーヴン(ダグラス・ディードリッヒ)のキスを好意的に拒んだのは、そのキスが夏と夜と自分を永遠に変えてしまうであろうことを十代の本能で知ったからに他ならず、それはそれで決して嫌なことではないけれど、少なくとも明日の朝ベス(アネット・ドノワイエ)とパレードで踊るまではペシミズムなど知らないままでいたいのだとするしなやかな拒絶こそが、この映画のマニフェストだったのではなかろうか。けれど心に残って消えないのは、よく晴れた日に華やぐパレードから遠くにいる彼や彼女のことであって、思春のアナーキストとして夜の通りを走り抜けたクラウディア(アマンダ・バウアー)と、「今までに一度だって君は考えたことが…」のその先を言えるはずなどないことを知りつつ身を切るような嘘をついたマーカス(ワイアット・マッカラム)にとって、青春は自分を刺しにくる存在でしかなく、先手を打つか身をかわすか、いずれにしろモラトリアムを脱ぎ捨てストリートワイズを身につけるしかない青いメランコリーがどうにもこうにも胸に痛くてたまらない。9月にはじまる新学年を前に、夏の訪れと共にひとたびリセットされたならその夏の間じゅう自分は世界にとって何者でもなくなるのだという圧倒的で底無しの自由と不安を、日本の学校制度で十代を過ごしたワタシはまったく知る由もなく、したがってペシミズムの前段としてのノスタルジーよりは完璧なファンタジーとしてこの映画も存在するわけで、やはり胸を張り裂くのはこの夏に自分が永遠に間に合わないことへの性急な焦燥でしかなかったのである。神話の勃興と終焉という意味ではその影を意識せざるを得ないのは仕方のないことで、終盤で登場する、恋人たちが深夜にネッキングする廃墟が『イット・フォローズ』への入り口であるのは言うまでもないだろう。焦がれ続けた彼女にそこでようやく出会ったロブ(マーロン・モーロン)がいともあっさり彼女から立ち去るのは、彼女が既にあちらの世界、すなわちセックスによって生と死の循環に組み込まれた世界の住人であることを知ったからで、そこに堕ちていくことへの甘美な憧憬と畏れが培養する十代の悪夢を名乗る怪物については、既に『イット・フォローズ』においてワタシ達は詳しいはずである。そしてこの2作の血筋について考えてみた時、やはりそれを神話の生と死とするよりは切り離されたシャム双生児と崇め鎮めるのがふさわしく、そう考えてみれば2010年のこの作品がいまだ『イット・フォローズ』と同じ鼓動で脈打っていることも何ら不思議ではないように思うのだ。夏を殺さないと夏に殺される。
posted by orr_dg at 02:16 | Comment(1) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あるいはまた「エヴリバディ・ウォンツ・サム」
Posted by 匿名 at 2017年04月07日 16:28
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