2017年03月02日

愚行録/夢見るように刺されたい

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原作未読。オープニングのシークエンスで田中武志(妻夫木聡)が見せるある行動によって彼が信頼できる語り部ではないことをあらかじめ宣言してしまうこともあり、フーダニット的なミステリーの筆運びにはさほどそそられるわけでもなく、そもそも監督にしたところで興味があるのはもっと別のところにあるからこそ、そうやって面倒を省いてしまったようにも思えるのである。ではいったい監督は何を為そうとしたのかといえば、タイトルそのままに愚行の記録を活写することであって、映画は殺人に関する動機や背景もそこそこに、愚者の動物園におけるその生態と行動にカメラを近接してはそれらの目つきの変幻や肌のぬめりとマーキングやマウンティングとの相関を、排泄物の香りや甘噛みからしたたる涎のツヤまでも絡めながら、あらかじめ愚者と生まれてきた者が他者を愚者へと引きずり込む時の昏いダイナミズムの、その中にワタシたちの絶対性を看て取ることこそが映画の可能性であり、自分はそれに魅入られてやまないのだという宣言でもあるのだろう。その手続として感情を漂白しむき身に晒し、虹彩を絞って目眩ましを払い水晶体を曇らせる湿度を除去するために監督が求めたのが、徹底して唯物的なカメラであったことは言うまでもないし、向井康介が切りつけては刺すように脚色したセリフと一体となって感情を状況として視せていく時の愉悦は、既に黒沢清において手ほどきされた嗜みにも通じて芳しく、光子(満島ひかり)の独房や杉田(平田満)のカウンセリングルームに思わずうなずくような既視感の正体もそこへ向かっているはずである。繰り返しになるけれど、前述した理由もあって羅生門的乱反射の醸成を含むミステリーとしての着地や、真理と倫理による断罪や贖罪といった、この手の映画が提示して然るべきあれこれは決定的に欠いているし、それがいけないことではなく時折(主に満島ひかり)冷熱の熱量が飽和してしまうシークエンスもあって全体としてはひどく歪な手触りの映画ではあるけれど、そのバランスの捨て方こそを名刺代わりとした監督の、頼もしさというよりは伏し目がちのふてぶてしさに何かを約束されたように感じたのである。初監督作品においてこの布陣を可能にした森昌行(オフィス北野)が、今後は日本のジェレミー・トーマスとなって邦画を横断してはくれないものか。
posted by orr_dg at 20:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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