2017年02月21日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/裏も積もれば表となる

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オフィシャルサイト

※本来なら熱に浮かされるはずが、どんどんと微熱から平熱へと回復してしまったその理由を考えていたら何だか偏屈な感想になってしまったので、好きになれた方はスルー推奨

とくに寝落ちした記憶はないのだけれど、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)がデイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)の人生に拮抗し、そこに介入するに足る事情と理由がいつまでたっても自分に説明できないまま、ああこれはメタファーだけでどこまで映画は成立するかという実験作なのだろう、だからワタシがいるこちらの現実が紐づける制約や制限、限界のラインは一度手放してしまわなければいけないのだ、そうやって現実逃避した浮世離れに頭を撫でられるアイソレーション・タンクの中で見る夢なのだ、カレンもクリス(ジュダ・ルイス)もデイヴィスが奥底で切望した家族のメタファーなのだ、だからあの母子が抱えている深刻さがどうも明らかにならないまま、あなたの正直が羨ましいとリベラルな身のこなしで大麻をふかして微笑んではいっしょに砂浜をはしゃぎまわってくれるタフなシングルマザーも、アメリカの中東派兵をシニカルに笑い、セクシュアリティを真顔のユーモアで語り、共に銃を撃ち、クラシック・ロックで心を交わす12歳の見てくれで21歳のようにふるまう15歳の息子も、デイヴィスがそうありたかった世界のメタファーなのだ、そこでは彼がルールとなる世界のメタファーなのだ、それを構築することによって彼は超えていかなければならない世界の境界を知り、喪の仕事を完了するのだ、とまあそんな風に得心してはみたのである。ただ、これではデイヴィスの道行きが安穏すぎるということなのか、彼の心地よいリハビリに冷水をかけるような亡妻ジュリア(ヘザー・リンド)の秘密が明かされるのだけれど、正直言ってこの試練は必要なのだろうかと訝しんでいたところが、終盤のおしつまった墓前のシーンにおいてまるで卒業試験でもあるかのように伏線は回収されることにより、どこへ出しても恥ずかしくないデイヴィスとなるわけで、再び回りだしたメリーゴーラウンドこそがそれまで解体と破壊にいそしんできた彼がついに再生へと足を踏み出したことの最終的なメタファーとなるのだろう。と思っていたら、まだその先で子どもたちに交じってボードウォークを満面の笑みを浮かべて走るデイヴィスの姿を目にするわけで、ああ、これは幼い頃に駆けっこで一番になれなかった屈託からの解放となるメタファーなのか、念には念を入れるのだなと感心して息を吐いた瞬間、一瞬のストップモーションを経て暗転したスクリーンにデイヴィスのヴォイス・オーヴァーが「心をこめて、デヴィッドより」と追い討ちをかけ、この映画そのものが彼のつづった手紙、言い換えれば世界のあちこちで喪失につまずいては寄る辺のない日々を生きるワタシたちに向けた再生への処方箋なのだという、皆がそのつもりで客席に座っていた100分間のタネ明かしを念押してくれるのである。もちろん映画=メタファー(暗喩)であるのは今さら言うまでもないのだけれど、ここまですべてを噛んで含めるような喩え話で語られると、どうも少しばかりバカにされているのかなという気にもなってくるわけで、そこに隙のない誠実な語り口を加味すると慇懃無礼などという厭な日本語などうっすら浮かび上がって来る気もするのである。義父フィルが立ち上げたジュリア基金にデイヴィスが抱く欺瞞と偽善を匂わすために用意された、いけすかない水泳選手のくだり(「胸さわってもいい?」)に至っては、そこまで曲解を怖れるのかと鼻白みつつ苦笑いなどしたのである。それと邦題として引用された劇中のあの言葉は少々意訳(If it's rainy, you won't see me, if it's sunny, you'll think of me)が過ぎるのではなかろうか。晴れた日くらいは私のことを思い出してねっていう茶目っ気と皮肉を効かせた妻からのメッセージであって、少なくともあんな風な仄かに明るいメランコリーで上を向いた日本語ではないし、そもそも“君を想う”の主語がデイヴィスなのだとしたら、雨だろうが晴れだろうが変わることなく向き合わなかったからこそ取り返しのつかない悔いを残したのではないかと、少しわけがわからないでいる。
posted by orr_dg at 03:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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