2017年02月19日

たかが世界の終わり/ストレンジャーズ・ホエン・ウィ・ニード

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オフィシャルサイト


ルイ(ギャスパー・ウリエル)が「怖くたまらない」のは、自らの手で行う喪の仕事に対してではなく、かつて否定した自分の一部と向き合うことに対してなのだろう。そしてそれはアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)にとっても同様で、暴力なのかタフな仕事のせいなのか、拳に傷を絶やさぬような男がその握り拳を引き絞ったまま泣いているのである。アントワーヌにとってルイは自分たちを否定した世界の象徴であり、他の家族にしたところで、シュザンヌ(レア・セドゥ)はルイの不在がもたらした自身の欠落を笑顔でなじり、母マルティーヌ(ナタリー・バイ)にいたっては、アントワーヌとシュザンヌが抱える屈託を言い当てた後で「やはりあなたを理解できない(けれど、愛している)」と言い放つ。特に母マルティーヌがルイの到着する前にこぼす「ゲイは美しいものが好きなのよ」という軽口や、場をとりなすつもりで「なにかゴシップを教えてよ、誰と誰が寝てるとかそういうの」とルイを焚き付ける哀しいまでに無邪気な無神経は、ルイがどうして家を出なければならなかったのか12年を経ていまだその理由に思い至らない、まさにその無自覚さゆえルイは家を離れたことをあらためて告げていたように思うのである。しかしそうやって一方的にサンドバッグとなることをルイが自らに課しているのは、もし死の事情がなかったとしたら、ひたすら血を遠ざけるこの関係を自分が見つめ直すことがなかっただろうことを知っているからなのと、12年を経て気づくことのなかった、家族とは全員が被害者であると同時に加害者である関係なのだという理解にほんの数時間で到達したショックにもよっているのだろう。そしてその理解の先にあったのは、これまでずっと血にかまけてきた自分たちは、こうやってあきらめと絶望を分かち合うことでしか新たな関係を始められないのだという答えだったのでなかろうか。そのことに、わけてもルイがたどりつくことができたのは血で濁ることのないカトリーヌ(マリオン・コティヤール)のまなざしがあったからこそで、彼が携えてきた重荷にたった一人気づいた彼女は哀しみをこらえながら裂けた傷口をふさごうと走り回る戦場の衛生兵のようにも思え、「あと、どれくらい…?」というそれとてダブルミーニングのセリフ以外、その表情、しかもほとんど目の変貌だけでルイと交感するマリオン・コティヤールの超絶には息をするのも忘れるほどで、アントワーヌが単なる粗野で卑屈な男として片づけられないのは、これほど誠実な知性をもった妻を持つ夫としての側面がどこかしらついて回るからで、自分たちを否定して出て行ったあげく成功を収めた弟を認めたら、自分たちが何かを間違ったことになってしまうという怖れによって忌避と愛情に引き裂かれる苦悩の、しかしその偽りのなさゆえザンパノの哀しみすら漂わせるヴァンサン・カッセルの背中もまた、マリオン・コティヤールの瞳に負けず忘れがたかったのだ。作られる料理の、ご馳走の装いではあるのだけれどほんの少しだけくすんでしおれたような活気のなさがこの家の密かな沈鬱をそっと一言で伝えて、ドランの映画を支配する血圧の、動脈のたぎりと静脈の昏睡をあらためて思ったりもした。それにしても、ルイとカトリーヌの間でかわされる敬語の、やわらかな緊張と慈愛のニュアンスがつかめないのは本当に残念としか言いようがない。
posted by orr_dg at 17:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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