2017年01月26日

沈黙 −サイレンス− /アイ・アム・ノット・ユア・ファザー

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オフィシャルサイト

殉教から遁走し続けるキチジロー(窪塚洋介)は神のために死ねない自分を弱いと泣く。それはもちろん、死ねばパライソ(天国)で自身の苦しみから解放されると信じて死んでゆくのは果たして殉教といえるのだろうかという自問の末でないにしろ、デウスは大日なのだと看破せざるを得なかったフェレイラ(リーアム・ニーソン)の言葉を借りるでもなく、パライソ信仰はよりオールマイティな浄土信仰ではないのかという疑問とつかず離れずしてしまうのも確かなのである。しかし、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が最終的に直面する、眼前で苦しむ教え正しいとは言えぬ潜在的異教の人を救済するために己の信仰はどこまで有効かという信仰の極北を乗り越えたのは、キチジローという存在がまるで神の恩寵でもあるかのようにロドリゴの保つべき正気の合わせ鏡となっていたからなのだろうし、最後にロドリゴからキチジローに向けられる原作にない言葉はその現れということになるのだろう。そして、ロドリゴが最後に掌中にするのが自身のクロスではなくモキチ(塚本晋也)が作り託したそれであったことからも、沈黙の声とは自ら境界を超えていくことでしか耳にすることは叶わないのだというスコセッシのたどり着いた答えがうかがえるように思うのだ。これほど原作に喰らいつくように映像化されてしまうと映画の感想なのか原作の感想なのか自分でも曖昧になってしまうのだけれど、スコセッシが獲得して託した答えはその同時代性において否が応でも突き刺さってくるし、ワタシたち観客がそれをロドリゴの旅の仲間として共に喜び怖れ打ち震える体験を可能にした映像のデモニッシュな美しさと幻想的な寄る辺の無さは、それと引き換えにスコセッシが差し出したであろう魂の息づかいを思わせてやむことがない。井上筑後守(イッセー尾形)については、通辞(浅野忠信)がロドリゴに言う「井上様は現実的なお方であって、ただ残酷というわけではない」("He is only a practical man, Padre, he is not a cruel one.")という台詞における "practical" のモンスターとして少々戯画化して描いてはいるのだけれど、トモギ村でイチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ、キチジローたちが戦略的に踏み絵をしてみせた時とキチジローがクロスに唾した時に見せる彼の表情は、後にロドリゴに告げる「日本とはそういう国だ。どうにもならぬ」という言葉に潜む彼の徒労もうかがわせ、絶対悪を据えてしまうことで構造が矮小化することを回避しようとするスコセッシの演出にはため息とともに唸らされてしまう。 常々思うことだけれど映画の洋邦で目につく差はやはり「黒」の階層で、時間、要するにお金をかければかけるほど「黒」はそれが絢爛な漆黒であっても殺伐の闇であっても魔法のように美しくなることを目の当たりにした映画でもあったし、生きたまま人が燃やされ、十字を切る間もなく斬首される瞬間へ一瞬の隙なく踏み込むカメラの獰猛は、やはり紛うことなきスコセッシの映画だなあとどうにも昂奮してしまう。 当初日本人俳優の情報が入ってきた時は、てっきり塚本晋也がキチジローだと思っていたのだけれど、キチジローをロドリゴにとっての救済者とするために穢れの奥にも無辜の光をたたえる目をスコセッシは窪塚洋介に欲したのだろうし、そのヴィジョンを十全に理解した彼によってもたらされた清冽がこの映画自体の救いとなっている。
posted by orr_dg at 20:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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