2016年01月14日

イット・フォローズ/死をふたりが分かつまで

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オフィシャルサイト

“口笛吹いて空き地へ行った、知らない子がやってきて遊ばないかと笑って言った”これはある年代以上なら記憶にあるであろうNHK教育の「みんななかよし」という情操番組の主題歌のワンフレーズなのだけれど、なぜ公園でなく空き地なのか、なぜ友達でなく知らない子なのか(これについては番組テーマの反映でやむを得ないのだけれど)、子供のワタシが当時うっすらと感じた違和感の理由はこの不穏な言葉のつながりが生む永遠の孤独(=死)の感知によるものであることは瞭然なのだけれど、この映画を観てそんな歌をつらつらと思い出したのは、まるで空洞のような郊外を漂白する青春の初年兵たちがセックス(エロス)とIT(タナトス)の無表情な円環に囲い込まれ追いつめられていく姿の無残と諦念が彼岸の風景を記憶に呼んだことによっているのだろう。セックスによって生と死の循環に組み込まれることへの甘美な憧憬と畏れはいつしか十代の悪夢を名乗る怪物を培養し、セックスへの欲望と憎悪を嗅ぎとっては自分を生み出した創造主へのあてなき復讐を繰り返す。ならばあのラストを誰がもっとも望んだかといえばそれはポール(キーア・ギルクリスト)にほかならず、怪物の突然変異と暴走が彼の幻視を引き金としているとするならば、なんとはなしに『ジェニファーズ・ボディ』あたりの白昼夢を思い出したりもするのだけれど、郊外に築かれたアパシーの王国を制御不能なイドの怪物に追われた彼や彼女が8マイル・ロードを超えた瞬間、果たしてITは誰の姿をまとったか、そしてポールとジェイ(マイカ・モンロー)はITをコントロールするために互いとセックスし続けることを契約するという結婚の暗喩、といった醒めない夢の夢オチは、“セックスのつながりさえ無ければ、本当はきっとうまく行くにちがいない。ずっと調子よく空想なんか必要なく、空想よりもっといい所で暮らせるのさ”という清志郎の言葉を引くまでもなく、ワタシたちもいまだその悪夢に囚われていることを告げてやまないのである。オープニングの強迫シンセに始まり、刃物を持ったキチガイのハミングに嬲られるのを涙目で歓喜しながら正座して待つ端正を崩さないショットとの、被虐とも言える睦み合いはここ最近におけるそうした実験の麗しい成果であった『マーサ、あるいはマーシー・メイ』や『アンダー・ザ・スキン』を超える偏執アンビエント地獄となっていて、こうした映画を観るたびにデジタル・リマスターされた『クリーン、シェーブン』によってスクリーンで屠られる夢を性懲りもなく見てしまうのだ。ローソン高校のシーンでは観客だけにITを見せることで、その後はいついかなるシーンであろうとどこかの通りをITがひたひたと歩いてジェイに向かっているイメージを焼き付ける手口が鮮やかなのだけれど、ここではグレッグ(ダニエル・ゾヴァット)とジェイが去った後も事務室から離れないカメラの厭わしさがこの映画の真骨頂なわけで、偏頭痛の合図のようなジングルと共に2人が登場するシーンから始まるこのシークエンスでのカメラとサウンドの神経症的な絡み合いこそがこの映画の旗印だったのは間違いのないところだろう。病室で一人目覚めたジェイが夢うつつのまま、眠りこけるポール、グレッグ、ヤラ(オリヴィア・ルカッティ)、ケリー(リリー・セーベ)を順番に見やるシーンの、たとえば夏の海で遊んだ帰りの車内で運転している自分以外みな眠りこけている時間の気怠く濃密な静寂はもしかしたらみな死んでいるのではないかという妄想すら可能にするわけで、劇中に頻繁に登場する眠りのシーンからは眠りに落ちている間はもう一つの現実にいるのではないかという逆転をうかがってもみてしまう。学校に行ったり行かなかったり、バイトに行ったり行かなかったり、大人たちは徹底的に顔を奪われてしまっていたり、そうしたあちらとこちらの混濁に溺れるサイケデリックがホラーをはみ出していく連れて行く先は入り口も出口もなくただただ耳鳴りのような風が吹き抜ける空き地で、夕方5時になっても家に帰らなくていいかわりに遊ぼうと近寄ってくる顔のない子から永遠に逃げ続ける鬼ごっこが、つかまったと思った瞬間にお母さん!と叫んだ自分の声で目が覚める夢であればどれだけ幸福か、最悪の悪夢は覚めない夢であることを告げるラストは青春を無駄死にさせた大人にとって厭味な余韻であったとしかいいようがない。
posted by orr_dg at 20:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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