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ネットでロンダリングされた論理と倫理と知識からさらに解のみをペーストして武装したルイス・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)が難関をクリアしてステージをあげるたびにその左手の腕時計がまるで手錠のように鈍く光り、たとえそこにどれだけ自己実現の徴を見出そうと彼がしていることは盗んだ金網やマンホールの蓋を故買屋に売りさばくのと本質的には変わりがないにもかかわらず、ルイス本人にとってそれは純粋に労働倫理の遂行と達成の問題であって罪の意識など参照されないことを、高級車に乗り換え撮影機材のグレードを上げようとも常に替わることのない盗品の腕時計が告げていたように思う。ゼロにどんな値をかけてもゼロになり、ゼロにどんな値を加えてもその値にしかならないという点でネットの本質をゼロとしてみるならば、返されたゼロを自由や解放ととらえ、そのまま返された値を自身の承認の証しとすることで生まれるゼロの怪物としてのルイスへの奇妙な親近感が成立するのは、誰も彼もがネットに身を委ねて(あるいはからめとられて)たゆたう2015年という時代の空気があるからこそで、70年代であればニーナ(レネ・ルッソ)は『ネットワーク』におけるフェイ・ダナウェイのごとく弾劾され、ルイスは『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロのごとく孤独を狂気に変えていたところが、メディアも疎外された自己もそのすべてをネットが数珠つなぎした世界にあっては、好むと好まざるとに関わらずニーナやルイスの背徳的で共感性を欠いた功利主義にすらスペースが与えられていることはルイスに破滅が用意されなかったことに象徴的だし、そうやってワタシたちがそれら緩慢な麻痺の中にいることを告げるのが誠実な批評なのだろう。感情の伝達と発露に生じる微妙な時間差がルイスの人間離れを増長させて、どこかしら『アンダー・ザ・スキン』のスカーレット・ヨハンソンを想い出させもしたのだけれど、それもあってたった一度だけルイスが感情を爆発させるシーンが説明的な安全弁のように映ったのがややもったいなく感じた。あれだと彼を理解してしまうように思うのである。ニーナを口説き落とすのもルイスにとっては交渉術の実践と支配欲の充足に過ぎなかったのだろうけれど、『スタスキー&ハッチ』のフォード・グラン・トリノや『アウトロー』のシボレー・シェベル(カラーリングが一緒)といった、赤い車のヒーロー幻想をダッジ・チャレンジャーに満たしたルイスの幼児性がベッドではどう発揮されたのか、「きみの部屋で二人きりの時は僕がそうしろと言ったことはするんだよニーナ、この間みたいのはダメだ」というセリフに妄想がふくらんだ時点で既にワタシも同じ穴のムジナということなのだろう。そういった子供がいっぱしの大人を気取った風な滑稽さがこの映画に歪んだ喜劇性を与えていて、ラストで新入社員たちに向かって「僕の指示に時には困惑したり自信をなくしたりするかもしれないけれどこれだけは覚えておいて欲しい、ぼくは自分がやらないことを君たちにやれとは言わない!」と訓示するその真顔の、約2時間にわたって彼の“やったこと”を目の当たりにしたワタシにとっては極めて悪趣味なギャグの余韻と共に、やれやれ、といった苦笑いと骨折り損の気分で劇場を送り出されたのである。まるで吸血鬼のようなルイスが徘徊するLAの夜をその闇ではなくナトリウム灯とネオンサイン、そして車のヘッドライトが交錯するライトショーの狂騒でとらえたロバート・エルスウィットのカメラは『インヒアレント・バイス』での卒倒する白昼夢との異母兄弟のようで、特にルイスが夜の扉を運命的にあけることになる交通事故現場の光と影にはまるで黄泉の国を行き来するかのような荘厳とグロテスクが同居してはっきりと息を呑んだ。ピカレスクとして成立してしまう境界性を引く場所は、実は相当に危ういぎりぎりに設定してあるように思う。