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※結末にふれています
ジョイス・キャロル・オーツが「オン・ボクシング」の中で“人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない”と書いて、ボクシングそれ自体をボクシングを超越した何かの象徴とすることは不可能だと言っているのだけれど、その意味では、ボクシングを存在証明の代償行為として使い捨てるのではなく、一人の人間の人生がボクシングに喰われていく姿を描くに徹していたのが、この“ボクシング映画”の勝因だったように思う。一子(安藤サクラ)がボクシングに我が身を差し出した理由は極めて曖昧にしか語られていないのだけれど、許可された両腕を使って殴りつけた相手の意識を10秒間奪うことだけを目的におのれの精神と肉体を鍛え上げ、しかしそれを突き動かすのは相手に対する敵意や殺意ではないという不可解がその中心を為すボクシングによって、一子は自身に巣くう存在の不可解までもが赦される可能性を感じたのではなかろうか。女性であるがゆえ一子に刺さるささくれは映画のフックとして用意されたものであって、性差を利用することでこの精神の冒険を成り立たせているわけでもないのが清々しく思えるからこそ、あれに関しては未遂でも良かったのではなかろうかと、その筆の滑りを惜しく感じたのは正直なところである。ただ、その程度のノイズを口笛で吹き飛ばしてしまうくらい、脱皮した皮をボクシングに喰わせていく一子の変容はそのスピードがスリリングだったのだけれど、となると問題なのはラストに用意される試合の仕上げ方ということになる。この映画のブルージーなトーンからして一子に勝たせてしまうほど脳天気なはずはなく、ではいかにして負ければ一子は終わらずに済むのだろうかという、ひとつさじ加減を間違えるだけでそれまでのすべてが灰燼に帰してしまうという厄介なハードルを、結論からいえば非常にスマートにクリアしていたのには少なからず舌を巻いたのである。ラストラウンドで一子が報いた一矢は、ラッキーパンチのそれではなく左のボディから左のフックという左のダブルによるコンビネーションパンチによっていて、このテクニカルな攻撃で一瞬とはいえ手練れの相手にダメージを与えたことで一子が積み上げたトレーニングの日々を肯定しつつ、最終的にはそれを凌駕するトレーニングを積み上げてきた相手による全否定を受け入れることで、ボクサーとしての一子が誕生するというドライとウェットのどちらにも寄らない舵取りは見事だったように思う。あそこに走馬灯的フラッシュバックをインサートするにはある程度の決断が要っただろうけれど、あの試合全体を支配する窒息感はまるで洗礼の荒行のようであったことを思えば再生の手続きとしてのそれも頷けるし、正直いってここでのワタシは『インターステラー』のお告げシーンより脈も体熱も乱れていたはずである。それと、狩野(新井浩文)が作ったわけのわからない肉料理を食べながら嗚咽するシーンの、おそらくは初めてであろう他者からの完全な肯定に感情が右往左往して混乱し泣き出してしまうこのシークエンスを一子のプライマル・スクリームとして描いた巧みも忘れがたい。狩野に対する念の入ったポンコツ描写は、特になにげないカット、たとえば一子のアパートの窓辺から外を見やる狩野を、ショートパンツでベランダに出て布団を干す若い女性ごしの遠景で捉えることで女性に対するだらしなさを予感というよりは刷り込みをしてきて、そこまでしなくても誰も最初から新井浩文を信用してないのにと、その悪意には少しだけ愉しくなったりもした。ひとつ苦言を残しておくと、ああやってせっかくなけなしの余韻を残しておきながら、クレジットロールでそれまでのBPMとまったくそぐわないギターポップをガチャガチャと聴かされるのは本当になんとかならないものかと思う。一子さん32歳だぞ。走り出した青春が転んで舌出す映画じゃないぞこれ。
ところで冒頭で引用したジョイス・キャロル・オーツの「オン・ボクシング」は、ボクシングの崇高な不可解を、観戦者としての個人的体験(彼女は9歳の頃から父親に連れられてボクシングの試合を観戦している)を通して、その透徹した詩情による筆致で描いて傑出したボクシング論なので、今現在読みたいと願う人が誰でも手に取れないのが不幸でならず、ちくま文庫あたりで復刊すればいいのにとずっと前から思っている。
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