2013年02月24日

世界にひとつのプレイブック/愛しても一人、暴れても一人

世界にひとつのプレイブック
オフィシャルサイト

ティファニー(ジェニファー・ローレンス)が出てくると、何となくニヤニヤ笑いで観ていた口元をとっさに引き締めなければならない気分になって、ただそれは彼女がパーティの雰囲気をぶちこわしにしているとかそういうことでは全くなく、ひとえに闘う人へのリスペクトによってである。パット(ブラッドリー・クーパー)と出逢った瞬間、お互いが決定的に壊れた欠片であり、しかもその欠片は完全にフィットすること、そして互いをフィットさせないことには自分もパットも永遠に救われないであろうことを絶対的に確信した彼女は自身とパットの存亡をかけた深謀遠慮をスタートさせ、と書いてみればそうしたプライベートな世界征服をスウィートやファンシーで見事に偽装したある映画を思い浮かべてみたりもするわけで、その切実と性急な遂行は言うまでもなくアメリ・プーランの骨格を呼び覚まし、そうした意味でこれは圧倒的にティファニーのというかジェニファー・ローレンスの映画であり、世界に唾を吐くその喧嘩のやり方にはぐうの音も出ないまま見惚れるしかなかったのである。もちろんある時点でジェニファーのそうしたサインを読み取って共闘に転じたパットのストーリーもあるにせよ、彼が一家総出のバックアップにより前線に送り出されていたことを思えば、ジェニファーの闘いはその孤独ゆえ独善のそしりをギリギリでかわしていて、でもその索敵行動はどことなく危険で不穏にねじれている気がするのだけど果たしてどうなのだろうかという疑念すら幸せへの予兆で抑え込んでみせるアンサンブルの周到は、これは勝たなければ意味のない闘いであり、闘う姿勢にこそ意味があるなどという甘言は自分が負けることをイメージするつもりもない勝者面の貧困な想像力が吐く戯れ言に過ぎないという、無欠を気取る世界に向けた不全な精神からの宣戦布告に他ならず、結果として無欠の象徴であるカウボーイズは敗れ去り、別れはニッキからではなくパットの口から告げられたにしろ、それを意趣返しのように描いて溜飲を下げることを望まなかった品性の美しさこそがこの映画の矜恃であり、それは正気のありかで右往左往して溺れるよりは、なければないでどんな泳ぎ方が可能なのか考えてみようか、というまさにそれこそが正気の第一歩を踏み出した者による霧の晴れた視点がもたらしていて、泳ぎ切るかと思われたティファニーが力尽きる寸前に手をさしのべたのが、誰よりもまわりの助けを必要としていたはずのパットであったという定型がなぜこれだけの説得力を持ったのかと言えば、それはパットと共にワタシの霧も晴れたからなのだろうと思っているし、そうやって境界を押しひろげることで陽の光を呼び込むような映画を監督は自分のためにも撮っていくのだろう。ブラッドリー・クーパーはその端正な造作ゆえ開いた瞳孔の夢見がちがファンタジックな昏睡を呼んでロマンスの香りを途切れさせなかった点で奏功していて、ジェニファー・ローレンスとからんだ時の華やぎがこの物語のダウナーな側面をやんわりと支えていたことを考えると、当初キャスティングされていたマーク・ウォルバーグも今となっては少々分が悪いように思われる。ロバート・デ・ニーロはどこからどう見てもロバート・デ・ニーロでありながら、アンサンブルの中に気配を消してブラッドリー・クーパーの重しとしての機能に徹していたことにあらためて唸らされる。ジェニファー・ローレンスは深くて暗い底に触れて生還する時に最も真価を発揮するように思え、したがって監督がどれだけの深度を彼女に与えることが出来るかという点でかなりピーキーな女優ではあると思うけれど、深みにはまった時のスリリングと役者バカのレベルは現状で世代最強のように思う。ところで先ほど別の映画を想起させる旨を書いたりもしたけれど、世界の不全に魂の自由が立ち向かう物語としてはこちらを想い出したりもしたものだから、この映画にロマンス以外の柔らかい棘を刺されたと感じたのであれば、是非チェックしてみてはいかがかと思う。まあそんな人であれば既に観ているかもしれないけれど、時々は想い出してあげる必要のある映画だと思っているからちょっとしたお節介と言うことで。
posted by orr_dg at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。