2012年04月11日

KOTOKO/ヴァイオレンス、ラヴ&アンダスタンディング

kotoko
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世界の果てのギリギリで子供の前に仁王立ちになって、生身ひとつで暴力をくい止めるすべての母を琴子と呼んでいる。だから塚本晋也はこれまで培ってきたスキルを総動員して容赦なくサウンドとカメラを撃ちまくり、一切躊躇することなくその生身と暴力を描いて寝た子を起こしにかかっている。あなたの不安をわたしも持っている、あなたの恐怖をわたしも味わっている、あなたの希望をわたしも求めている、そんな琴子のアジテーションをCoccoが目の玉をひんむいて完遂していて、いつもなら攪乱を目的に現れる“ヤツ(塚本晋也)”ですら田中などと名前を変えて世界をなだめ癒すために登場するくらいだから、その烈しさと昂ぶりは嫌悪に目をそらす一線と紙一重のところでようやく思いとどまっているかのようだ。琴子はかつて自分に浴びせられた暴力が自身の深いところまで染み込んでしまっていることに気づいているせいで外部からのそれのみならず内部のそれをことさら恐れていて、少しでも気を抜くと奥の方の暴力に乗っ取られてしまうから、そういう時は自らに刃物をあてていまだ血が赤くあたたかいことを確かめずにはいられないのだろう。田中は琴子の暴力を吸いつくしたことで役目を終えて跡形もなく消えてしまうのだけれど、そうやって暴力の内炉を消し去った琴子は逆にその空虚な不安から、襲い来る暴力に完膚無きまでに屈するビジョンを見たことである究極の選択に身を挺することになるのだけれど、ここで直接は描かれない為されたことと為されなかったことの本能ゆえの決断が世界を救済したことで、かつてひとりの女の子が浜辺で踊っていた自由で愛に満ちたダンスを母となった彼女は驟雨の中で再び踊ってみせて、起こされた子は真っ白な静寂のうちに寝かしつけられるのである。しかし彼女自身は力尽きて昏睡のうちにあるのかもしれないけれど、少なくとも彼女の子供は母から希望を受け取ってそれを育てている。育てて母に降り注いでいる。母に守られて育った子供はそうやって世界を守っていくことだろう、だからそれがどれだけ激烈な憤怒と慟哭に彩られていたとしても母たちの抗いが止むはずはないのである。この映画はそうした意思表明を、寓話に託すと言うよりは瞬間ごとの直接性で行っているから、まるでCoccoと塚本晋也本人によるライブフィルムのようで時々フィクションの境目を見失いそうになるのだけれど、最もスリリングに事が運ぶのがそうした瞬間であることなど承知の上なのだろうし、例えば中華鍋を振るシーンで明らかなようにそこで爆発させる感情の質までも周到な映画の計算によってフレームに収めているわけで、そんな風にして、捉えたものというよりは損なわれなかったものを目にする快感に溢れる映画であるように思うのだ。正直に言うと塚本作品のミューズとしてのCoccoは、闘う女のイコンとしてはともかく感情の圧縮と解放のやり方がアクシデント込みのエキセントリックに過ぎるのではないかと、彼女のリスナーであったことのないワタシはそのパブリックイメージのみで思っていて、その奔流をあてにすることで成立する映画になっていたらちょっと困ってしまうなあと危惧していたのだけれど、パフォーマーとして半ば計算された彼女の身体性とカメラが格闘することで映画がドライブしていく熱量は塚本作品で馴染みの感覚だったし、何より例の特殊メイクで“大丈夫!大丈夫!大丈夫!大丈夫!“と絶叫する塚本晋也が『ヴィタール』と『悪夢探偵2』のその先に佇んでいるのを確実に見届けることが出来たものだから、心置きなく傑作と喧伝してしまおうと思っている。
posted by orr_dg at 12:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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