2011年06月24日

東京公園/井川遥のいる街で

東京公園
オフィシャルサイト

クランクイン直前で流れた例の映画の後で立ち上がった一見セルアウト気味の企画だし、正直言って傭兵気分で撮った映画なのかなあと思って情報や期待については手ぶらでのぞんだのだけれど、これがあにはからんや物騒なところもキチンとしのばせつつ喪失と再生をクリアで背筋の伸びた緊張と共に描いた佳篇に仕上がって思いがけない収穫で、浅はかな思い込み誠に申し訳ない。ここでは主にそれぞれの決壊をきっかけに女性達が自らの女性性に対するケジメを描いてるものだから、「サッドヴァケイション」にあった怪物的な母性に比べればワタシを含め男たちは終始いい気なもんである。といいながらも、冒頭では平面的すぎるように思えた志田光司(三浦春馬)は、女性達の懐から人生のあわいのようなものを手に入れることで自分の足場を切り出して奮闘しきりの大健闘なのだけれども。この平面からの移行について言えば、それはそのまま映画の中で切り返しのショットで会話をしていた者たちが次第に一つのフレームに肩を寄せ合っていくのと同じ変化であって、その絶頂とも言えるあるキスシーンはそこに至るシークエンスを含めて和洋問わず近来あまりお目にかかっていない、状況ではなく状態としての官能を醸していて、※知らずに観た方が絶対いいと思うので以下反転しつつ役名および俳優名も自重、一度キスをしてほんのわずか離れた顔が昂揚に包まれつつ困惑と確信の中間地点で静止したまま、互いに二度目のキスこそが必要であることが分かっているくせに、果たしてそれを相手は望んでいるのか、許してくれるのか、拒まれるのか、男性の背中ごしからのショットによって終始さらけ出されたままの女性の顔に浮かぶ世界の果てで待ち受けているかのような切実さからは死ぬことすら覚悟したような喘ぎが聞こえてくるようだし、その決着までの予想を超える長回しは放置/羞恥の様相さえ呈していて、まさかこんな風に揺らされるとは思ってもいなかっただけにこのセンシュアルには虚を突かれつつも快感しきりである。そしてもう一つ、役者達が口にする言葉について、それは会話調のリアルというよりは当然映画のセリフとしてデフォルメされた結果なのだけれど、監督の演出が役者の解釈をどこまで促した結果なのか分からないにせよ、発語感や区切り方、イントネーションといった作用による日本語のライブ感がおりおりでやたら耳に心地良く、そしてそれを体現して最も成功していたのが富永美優を演じた榮倉奈々で、映画の采配を握る役どころを道化のハレと哀しみと共に的確に嫌味なく捉えていたものだから、今まで見ず知らずだった彼女のちょっとばかりファンになってしまった。原作付きの題材やキャストなど、監督のフィルモグラフィーにおいては少々異質なものを感じるかもしれないけれど、例えば潮風公園に映り込んだ波頭の禍々しさや海風の吹きすさぶ大島で小西真奈美の頬をつたう涙、そしてそれが連れてくるダークサイドのショットなど監督の刻印はあちらこちらに押されていて思った以上にざわついたところのある映画なので、ワタシのように食わず嫌いのまま敬遠されることのないようお薦めしておきたい。
posted by orr_dg at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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