2010年12月06日

白いリボン/我ら獣の見る夢は


白いリボン
オフィシャルサイト

それがどれほど魅惑のやり口だとしても、材料を絶命させ毛をむしり血を抜いて捌くところまでわざわざ想像させた上で料理を差し出していた頃のハネケに比べれば、少なくとも今回の料理は厨房で作られているし、何を材料にどのような味付けをしたのかレシピらしきものすら明らかにしている。ただ、料理は次々運ばれてくるのにナイフもフォークもスプーンも数が全然足りていないという困惑は相変わらずではあるので、料理はもうお終いでこれで席を立っていいものかどうか、終映後の客達の引きずるような足取りはいつもの光景ではあったのだけれど。ところで先ほど書いたレシピというのが、今作では村の学校教師による一人称のナレーションで事が進んでいくということで、ドイツの或る村で起きた一連の出来事に対する教師個人の見解が物語を進めることになるのだけれど、では、教師が当事者としての関わりを持たなかったシーンについてはどうなのかというと、以下伝聞を含む的な注釈が既に冒頭で為されているから実際にはかなり恣意的でもあるわけで、極論すれば全てはこの教師に起因するという可能性すらあるということになる。となれば、講釈師、見てきたような嘘を言い的なこのやり口からして既にワタシはいいように弄ばれているわけだけども、それにしてはレシピ自体は至極まっとうな記述であるからそれに乗っていくしかなかろうという身悶えは実は期待通りの捻れでもある。そう言えばマッカーシーの「ブラッド・メリディアン」の感想でも似たようなことを書いたけれど、要するにこれは(“要するに”などと括ってしまう呑気な無謀!)暴力も悪意もその初めから我々と共に在ったものだ、言うなれば我らの神がお造りになったものだ、ならば崇拝せざるをえまい?と過去累々に渡り繰り返されてきた愚行が世代を伝播していくメカニズムの糾弾なのだろうと思っている。だから教師が子供達の関与を指摘したケース以外は日常の因果による不幸でしかなく、それまでもサスペンスとして追尾しようとするから目眩ましになってしまうのであって、それらについては映画内に死を醸成させる苗床としての働きを額面通りに受け取ればいいのだろうと思う。などと一応表層を撫でてはみたけどもやはり構成パーツの方もあちこち愉しくて、着地もせずに堕ち続けるスピードを静止寸前で維持したまま、もう良かろうと思わせながらまったく止めない酩酊は次第に癖になっていって、安置された小作人の妻の亡骸、助産婦を罵倒する医師のやり口、夜更けの医者とアンナとルディの三すくみ、兄弟がジギに暴発する直前の無為、といった印象的なシーン以外でもすべてのカットがダメを押すようにほんの少しだけ引き伸ばされているせいで不穏や倦怠、閉塞といった感情がより募っていくのだけれど、それらが思ったよりも沈澱しないのは緊張と硬質のモノクロームによるところが大きくて、そんな風な幻想とドキュメントをない交ぜにしたヒプノティックな語り口はハネケの新機軸のようにも思えるし、そうやって映画の切断面を薄気味悪いくらいスムースに仕上げた割に企みそのものは相変わらず神経に障るような奥まったところに塗り込んでおいて、それを次第に剥き出していく手管の精緻と狡猾は既に洗練の極みに近づいて、そのまま推し進めれば無風/凪にしか映らなくなるぎりぎりのところで血管が脈打つのを透かしてみせる冷徹なプランは心底いやらしいとさえ思う。今作に限らずハネケが作品に込める意志は、こちらが揺さぶられた(と思った)振幅の割にはシンプルな普遍であったりするものだから、そのバランスのズレのせいで足元をすくわれたワタシたちはどこか落ち着きをなくしてしまうのだろうと思っているし、その点でこれは自分という現実の明らかすぎる反映である。相変わらずハネケは「すべての事件に、論理的な説明がなされています」などと言って然るべき手順を踏めば看破できるはずだとしていて、それは言い換えればバカには分からないように撮ってありますということなので、この傲岸不遜に嬲られたい方は鼻をあかしに行ってみてはいかがだろうか。ところで、終盤になってからモノクロームの色味が明らかに青みがかるシーンがいくつかあったものだから、また何か幻惑されてる!などと思ってそのルールを見つけようと思いめぐらしたのだけれどそれも叶わなかったので、これからご覧になって何か思惑など気づかれた方はご教示いただければ幸いです。

posted by orr_dg at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック